【2309文字】赤信号より、拝啓

ママへ

ブレーキして、ブレーキして!と言う声が、なんていうか、切羽詰まったことを繰り返しすぎて、もう切羽詰まることにも疲れたみたいな、怠惰な緊急の、母親の声だったので、今日はママに手紙を書こうと思った。

これは横断歩道を、ちゃんと赤で停まって待ってたときに盗み聞きした他人の会話。

「ブレーキして。もう危ないから」

まず母親が言った。よろよろ減速する自転車が居て、それがわたしの隣で弱々しくブレーキをかけて停まった。

「ブレーキ固すぎんねん。無理やろこんなん」

子どもが言う。
声変わりしてない男の子の、純粋な、ずるい賢さを孕んだ、まだ使い込まれてない喉の、高い声。

「こんなん毎回握ってたら、筋肉痛なるわ」

また子どもが言う。
筋肉痛、ってわたし、いつぐらいに覚えた言葉かなあ、って思ったんやけど、思い出せませんでした。

言葉っていつ覚えてるんやろうね。

子どもはいつの間にか教えてない言葉を覚えるよね。それで、ママが『あんたどこでそんな言葉覚えるん』って呆れた顔で言うのよね。

「どんだけ筋肉ないねん。そんなんで筋肉痛なるとか」

母親が言う。
母親は終始、こんな感じで喋る、エネルギーを最小限に抑えた相槌、という感じで喋る。わかりますか?
子どものおしゃべりに対して、いちいち情熱的な返事をしていたら壊れてしまうんでしょうきっと。

「ないよ筋肉。おれガリガリやもん。ご飯…ご飯はいっぱい食べてるけど」
「ガリガリなん」
「太れへんねん。なんでか。ご飯食べてるのに」
「ほおん」

ガリガリやもん、って男の子は何回も言う。わたしはどれくらいガリガリなんやろ、と思って横を見たくなったけど、がまんした。

4月の、わりに寒くない風が吹いてました。

そのとき信号が青になって、親子がわたしを追い抜かしていった。

母親は闇に紛れて見れんかったけど、街灯の下で子どもの姿が見れた。

日に焼けた、細い腕がむき出しの、サッカーをやってる男の子を想像してたけど、

白いしろい手が長袖の裾から見えている、まるい眼鏡をかけた、塾帰りみたいな少年でした。

ほんのちょっと、子どもの甘いくさい匂いがしました。

わたしは遅れて歩き出して、

カゴがやたら大きいおとなの自転車と、タイヤがやたらでこぼこした子どもの自転車が、えっちらおっちら遠ざかっていって、

そのときに、なんていうか、しんみりした、故郷の気分になったんよ。

遠ざかっていく親子の自転車っていうのは微笑ましい、それと同じくらい懐かしい、なつかしいっていうのは、

『もう戻れない』っていう寂しさのことやから、わたしはちょっとそこで泣いた。

なつかしいねえって笑って言えるひとは押しなべて強いんでしょう。それか、そばに人が居るんでしょう。

でもほんまは寂しくて悲しくてしかたない、だから、なつかしいって笑ってるひとの目は潤んでるでしょう?ちがいますか。それともどっちでもいいですか。そんなのは些細なことですか。

そういうことをママと話したいと思った。だからこうして手紙を書いてます。

そのあとは家までちょっとやったけど、スニーカーをとそとそ言わせて歩きました。

左手に持ったレジ袋が重かった。あれには150円引きのスーパーのお寿司とチューハイとお惣菜が入ってました。もう食べたけどね。

上司の神戸さんが、今日は金曜日なんやし寿司でも頼みなさいやと言ったんよ。
いいアイデアやと思って、でもお金がないからスーパーのやつを買ったんよ。うなぎが2つ、入ってるやつ。

今日は適応障害の診断書を職場に持って行って、仕事はしないで2時間くらい神戸さんたちと話して帰ってきた。

去年の冬から働いてた職場で、まだ半年も居てない。

大きい会議室みたいな部屋の隅っこで、天井に埋め込まれたまっしろい電気を4つだけ点けて話した。神戸さんと、あと会社の偉そうなひとが2人いた。

もう適応障害の診断書なんか見せたって誰も驚かん、ああ出た、病院に行ったんですね、いまどきこんなのは、病院に行きさえすれば誰でも貰える、そんな顔で、でもそんなことは一切言わんと、まず事務的な手続きのことを言うんよ、ほんでその口調はわりと優しい、辛辣ではないんよね。

「まあ無理なく」

そしてそれは、ほんのちょっとやけど、疲れた母親の相槌に似てるんよ。

「でもね、石の上にも三年、って言いますから」

やけど最後に、偉い人のなかの一人がそう言ってた。

石の上にも三年。おおよその意味ならわかる。たぶん。3年くらいはひとつのことを一生懸命やりなさい。

3年、っていうのは、もし石の上に10年も20年も座ってた人が言ったなら、すごおく譲歩した、甘い数字なんやろうね。

わたしはなんで3年も座ってられないんやろか。

自転車の親子の影は、わりとすぐに、紺色の夜のなかに消えてなくなっていった。

あの紺色のむこうに団地があって、ああいう自転車のくみあわせが、駐輪場にいっぱいあるんでしょう。切ないね。

あとね、ママ、ここまで書いて何やけど、この手紙は渡しません。このままゴミ箱に捨てようと思います。

わかってくれると思うけど、情けないことっていうのは、ママにいちばんに聞いてほしくて、でもママにぜったいに知られたくないものなんよ。

これは確信。きっと辞書にもそう載ってることでしょう。新明解国語辞典とかには特にね。

ママもばあちゃんにそうやったように、わたしもママにそうなんよ。こういうのは、ずっとずっと繰り返して、ほんで、なつかしい、になっていくんやって思います。

あなたは今、わたしのいちばん会いたいひとで、誰よりも会いたくないひとです。

泣きながら安い寿司を食べてるうちは、とうぶん色々、駄目でしょうけど、

平気になったらきっと、へいきな顔を見せるからね。

敬具

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