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君はチェルシーフラワーショーを知っているかね「なぜ応募したのか」

 こんにちは、いつも読んでいただきましてありがとうございます。今回は前回の記事からの続きになります。
 ただいまロンドンに入って資材の細かな選定などの仕事をしております、トップの画像はセントポール大聖堂にマンサクが咲き始めていました。私はこのマンサクの花が大好きなんですよね。

 いまは、このnote.muさんの使い方をちゃんと把握していないので、後ほどしっかりとマガジン化を行おうかと思います。ちゃんと構成できるかも不安なので、まずは一つ一つ記事をあげていこうかと思います。
よろしくお願いします。

実家は小さなお花屋さんでした

 実家は小さな町の小さく花を扱っているお店でした、お花といっても2000年頃から結婚式のお花がメインで、母が一人とアルバイトをしてくれる方と二人でやっているようなお店。もちろん女の子が結婚したりして、入れ替わりがあり。父はお庭とかお花とかには全く関係のないサラリーマンでした。

 そんな家で育ち、お花とか植物は身近にありました。しっかり勉強をして覚えなくてもお花の名前はある程度はわかる子供でした。

 でも小さな町の小さな店なので、仕事が忙しくて大変なわりには食べていくのがやっとな感じ。ちゃんと経営者の視点でやっていればいいのですが、母はアーティストタイプで経営感覚はさっぱりな人でした、そんなこともあって中学、高校と「花って儲かんないなー」なんて、他を見て勉強しないで思っていました。

 他の街ではアーティスト感覚でも、グンと成績を上げているお店もちゃんとありますよね。私の地元は北海道の田舎の方なので、そのような人たちがいることを知りませんでした。

ガーデニング愛好家

 そんな風に思っていても、なんだか興味のあるお花と植物です。母は切られたお花だったり、造花をつかうお仕事で成長過程は見たことがなかったので。私は中学生で好きに使えるお小遣いを手にすると勝手にガーデニングを始めました。ガーデニングといっても中坊のお小遣いで買えるパンジーとかマリーゴールドを勝手に植えてみて成長を楽しんだり、サボテンを育ててお花が付いて喜んだりをしていました。他にも植木を切ってみたり、挿し木をして増やしてみたりと一通りの園芸的なことを遊びながら覚えました。日曜日は正座で「趣味の園芸」をテレビで観ていましたね。その後造園の短大、造園会社勤務、ガーデンデザイナーに師事、家業の後継者を経て今になります。

2014年国際バラとガーデンショウより

 急に話は飛んで、大人になってからの話に変わります(詳しいことは後ほど記事にします。)、2013年の夏に、ハサミ一本軽トラ一台ではじめて「地域の植木屋さん」の形態で仕事をはじめました。はじめての創業でどうしていいのかわからないまま、実家の家業の傍で蒔いてあった仕事をもらいながら必死に走っていまた。 

 31歳の私は街の植木屋さんにしては、周りからしたらちょっと早い創業でした。なので、あんまり信用がありません。創業間もないので普通といえば、普通ですが自分に自信があったが故に、どうすれば信用を多くつけることができるのかを悩みました。その悩んだ結果、日本で一番と言われている国際バラとガーデニングショウに参加を決めました。思い立ったのは2013年の年末、ガーデンショウの参加の締め切りを見たら1月でした。

 1月の締め切りを間に合うようにお正月休みを返上で必死でデザインを考え、応募しました。その結果その2014年の春に出場が決定しました。

 その大会の結果、私は一番小さなガーデンのザインのカテゴリーで準優秀賞を受賞しました。上の写真のように北海道の暮らしを取り入れたデザインが好評をいただきました。

 そのとき、ガーデニングショウのお庭を作っているときから考えていたのが「いつかは、チェルシー」

「いつかは、チェルシー」

「いつかはチェルシー」そんなことを思いました。でも周りの先輩が言うには、
「チェルシーフラワーショー はお金が大変」
「イギリスの賞は意味があるのか」
「地域の仕事を頑張って、地域に貢献するのが大切」

 などなどと、いろいろなことを教えていただきます。それは過去にチェルシーフラワーショー に挑戦して、お金の面で失敗した人がいた経緯もありますし、そんな噂が回っているのも事実。それはインターネットで検索しても出てこない事実で、歴史と同じで失敗したことがらは検索しても出てこないけど、その業界内ではたくさんの噂のあるお話です。噂が噂を読んでたくさんのことが大きなお話になって膨れているのかもしれません。
 ですが、そう言われれば言われるほどに「いつかはチェルシーに挑戦したい」そんな思いが膨らんでいく自分がいました。

石原和幸さんの本を読んでいた

 また、僕はお花屋さんの息子でもあったから石原和幸さんの本を読んでいました。読んだきっかけは当時、私は実家の家業の手伝いをしていて家業のお花をどうしても健全な経営をしたいと奮起していた頃でした。
 石原和幸さんもお花屋さんの経営に悩んだ末にお庭の世界に入った人でして。石原さんの著書からは、とても大きな決断をされたのがわかりました。私とは違いますが、私はその石原さんの本に夢や目標を見たのです。
 大まかに自分が響いた場所をいうと、本の中には世界にはたくさんの凄腕のガーデンデザイナー、ガーデナー、庭師がいると書いてあります。「いつか海外で仕事がしたい」と幼少のころから思っていたのと園芸お庭が好きな私にとって、これをきっかけにして「いつか海外で仕事がしたい」が実現できないかと想像が膨らみます。

デザイナーとの出会い

 そんななか地元でイギリスから帰ってきたガーデンデザイナーと出会います。彼女はイギリスに4年と半年住み、園芸大学で学び、ガーデンのデザインスクールも卒業し、イギリスで有名な樹木の施設やガーデン、またガーデンデザイン事務所でも研修をすませてきた人でした。
 そんな彼女も「いつかはチェルシー」の仲間でした。
 彼女は、当時のイギリスの国際的な政治的な面もあってビザの取得ができず現地でのガーデンデザインの就職先が決まっていたものの帰って来ざるを得なかった人でした。もしかしたら彼女は僕よりも「いつかはチェルシー」の想いが強かったかもしれません。

 そのデザイナーさんとコラボレーションをする機会が増えて、日々の仕事の合間に初出場する場合のチェルシーフラワーショー のアイデアを出しブラッシュアップしてきました。

さいごに、また本音

 そのような過去や、本、人との出会いによって。私の心の中での
 「いつかは海外で仕事がしたい」
 「いつかはチェルシー」
 の想いが膨らみまして、今回の挑戦に至りました。
 このように書くと、少し自分の負を書かないのも自分にとってなんだか気が収まらないので続きを書くと。

 実は、2018年の売り上げが減少してしまったのです。それまでその東京で行われた国際バラとガーデニングショウの影響でいただいていた仕事のひと段落がついたり、また他にもその名残で仕事をいただいていたのですが。その噂や評判も4年も経過すると薄まるもので、その間に何も名前が知れることには何も挑戦をしていなかったので下降しました。

「いつかは、〜〜」ではダメ

 私はそこから「いつかは、〜〜」と言っていたり、想っているだけではダメなことを実感したのです。たった一回の日本での受賞で仕事が何不自由なくいただけているうちは気がつかなかったことでした、このような機会に巡り合って必死になったことも一つの幸せを感じております。 
 

では、また。ありがとうございます。

つづく

次回予告

チェルシーフラワーショーの難関について
チェルシーフラワーショーの映画

それ以降は、今現在の報告などを心境を交えて2019年今年の5月まで書いていきます。

チェルシーフラワーショー の出場者のページ
https://www.rhs.org.uk/shows-events/rhs-chelsea-flower-show/Gardens/2019/kampo-no-niha

株式会社キノ花園計画
http://kinokaen.com/web/
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柏倉一統
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