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若林正恭のあとがきと二人の三冠王

1か月以上、ほぼ毎日、新しい本を買ってはカフェで読む。まさに貪るように。

この2年間、乾ききった私が欲していたものが、本だったのだと思うと、本の虫だったと聞いている、あったことのない母方の祖父との血のつながりを感じ、否が応でも嬉しくなってしまう。

オードリーの若林のエッセイ『ナナメの夕暮れ』を読んだ。

以前noteで書いたかもしれないが、若林の初エッセイ『社会人大学人見知り学部 卒業見込』に感銘を受けた。それ以来、実はそこまでハマっていたわけではないオードリーの漫才をすべて見直し、オードリーMCの番組共々抜群におもしいことを知った。

『ナナメの夕暮れ』は2018年発売当初から気にはなっていたものの、タイミングの問題で読むのがこんなにも遅れてしまった。

この、あとがきが、よかった。

特にそこに出てくる「黒いフードの男」について綴られた文章に、言うまでもなくいい意味で息が詰まりそうになった。

何がどうよかったのか、頭で理解が追い付かないうちに、私はなぜか、つい最近見た落合博満野村克也の対談を思い出していた。



noteに書いて以来少し冷めていた私のバッティング熱(無論技術向上のためのバッティング練習)を再び上昇させたのは、やはり落合だった。

youtubeにて落合の動画を観あさって、「神主打法」に至るまでの試行錯誤やインタビューに垣間見える落合の野球観・人間観に感化されている。

落合のいうところの「野球を理解しようとしない人」に対する受け答えに、なんの義理もなくPC越しにひやひやしつつ、そういったメディアで落合が対談する様子を見ることができる相手の中で、唯一といっていいほど、誰がみてもわかる程に会話に畏敬の念が入り混じるのが故・野村克也である。

とにかく落合は圧倒的である。あまりにも強度がある。そんな落合をたしなめる野村は、一言でいうと彼の人徳のようなもので、自身の野球界、のみならず日本社会においてゆるぎない立場を築いているといってよい。二人の対談を見ると、私は落合に対する憧憬とそれをほんの少しだけ上回る、野村への"感動"が自分の中に芽生える。

落合の、ある種「正解」にも思えてしまう言動の正体は、その、自己鍛錬の上にある成果(実績)からくる「圧倒的な自負」から来ているようにみえる。天才であるとか、努力であるとか、そういう言葉が陳腐に感じられるほどに、孤高の野球哲学者たる風格をにじませる。それと同様なことをイチローからも感じる部分はある。プロである。

野村は、もちろん彼も三冠王であり、そういう次元の話ではあるのだが、自分でも「俺はまぐれ(の三冠王)、君(落合)は実力」というようなことを言う。それを本人の前で言うことは自虐であるとかそういった表現で簡単には片づけられない趣がある。実際落合は、3回の三冠王はすべて狙ってとっていると発言しているし、500本目、1000本目、1500本目、2000本目のメモリアルな安打は全てホームランで達成をしている。これは落合が、ある側面におけるバッティングというものをほぼ理解しきっていることを端的に表している。

この二人を見るにつけ、いまの社会をクーラーのきいた自室から液晶越しに眺めるにつけ、どちらも足りない存在であるなと感心する。人が集まるところで起こるよくないことは、この二人のような存在を尊ぶ心を欠いているような気がしてならない。


そんな中、超個人的に私が野村より落合に"憧れ"、落合より野村に"感動する"のは、社会的な分断に対して、野村的存在の必要性をより感じるからである。

野村的存在は、「ナナメの夕暮れ」でいうところの黒いフードの男に、(実際に)手を差し伸べることができるのではないかと思う。

若林が、彼に抱いた思いを、何も言わずそのまま受けとってしまえる人なのではないかと思う。ノムさんは。

あとがきにおいて若林は、彼と自分が同じであることを悟りながら、同時にそれを彼に伝えることの難しさを理解していて、心の中で「お前とおれは多分話が合う」とささやくにとどまる。そして、この本の感想を教えてくれとボールを宙に放り投げる。

彼を救う(掬う)ことは、いま世の中に足りない何かへのヒントになっているようだった。

あざます