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自分の興味に興味がない

語呂が良いのでこのタイトルにしたが、「興味がない」はさすがに言い過ぎというか、かっこつけすぎかもしれない。

「自分」というものが何なのか、それを内側に求めてもしょうがないというところまでは分かってきたところである。が、自分の直感型の気質、もっと踏み込んで言えばその思考の浅さに辟易して、自分が「興味をもつ」ことの根本にある思想が浅ましく思えてならなくなっているのが、最近の自分であることを遂に公表できるまでになった。これは進歩だと言える。

だから「自分」という確固たるものが内側に存在していて、それを探す旅、所謂「自分探しの旅」をするのもやぶさかではないのだが、それでは恐らくたどり着けないということは先ほど述べた通りなので、じゃあどうするかというと、不特定多数の誰かによって作られた偶像の「自分」をしっかりと認識することで、それを全うしたいと思うようになっている。最早アイドルだ。

これは他人の人生を生きることになるのだろうか。分からないが、この段階までくればそうはならない気がしている。少なくともこれは投げやりな決断ではない。自分で導き出したことであるし、もし「自分」というものが存在すると仮定すれば、きっとそれは内側ではなくそこにあるからである。素直な態度だと思う。我ながら。

周りからのイメージと「本当の自分」とのギャップに苦しむ人もいると聞く。分からなくもない。というかそういう状態に陥ったことは僕もある。そのギャップを埋める作業は、自分を開く作業であり、実際思い切り次第でどうとでもなる。だから、僕はある意味そこに関しては比較的若いうちに終えられている。この作業は、できると生きやすさゲージがぐんと上がるのでお勧めだ。で、いまの僕の問題はその次の段階にあるといえる。そこのすり合わせは終わっているので、あとはその「自分」を内側から掬うのではなく、外側から掬うということだ。

就活で苦しんだ大学時代に、最終的にすべてのプライドを失った僕がとった手段は他己分析だった。意味不明な日本語だが、自己分析という言葉から生まれたのでこうなってしまっている。まさに今、また僕がやろうとしていることは他己分析に近い。これは、きっと、そもそも苦手なことなんだろうと思う。生きていると、いやに自分のことを客観視できる人間とたまに遭遇するが、それはそれでいやらしくもあり、そういう人間になりたいかといわれるとそうでもないが、それでもこういう壁にぶつかるたびに羨ましく思うことは事実だ。自分を客観的に見たくないわけではない。けれど、圧倒的にその視点が日々の生活から抜け落ちているので、たぶん数年に一回チューニングしないといけない。きっとこれが、「自分中心に世界が回っている」タイプの気づき、大人への第一歩である。これができないと堕落し、自己陶酔の自覚のないままにシステムを恨むことになる。まさに悲劇の主人公だ。悲劇には悲劇が集まってくる。手を差し伸べてくれる人が現れても、それは共倒れ、破滅へと向かう道にまっしぐらなのだ。そんな風にはなりたくない。

「焦りは禁物」と「現状に満足していてはダメ。焦らないと」みたいなのを筆頭に、真逆の格言みたいなものは世にありふれており、結局「正しい焦り」みたいな意味不明概念が生まれてしまう人間世界で、結局信じられるのは自分だけだ。もとい、信じてあげないといけないのは自分だ。この力のことを、僕は独自に「胆力」と呼んでいる。この胆力が、あと5年くらいである程度身に付けばいいな、なんて未来の自分に淡い期待を寄せている。他人にしない方がいいことは悉く自分にした方がいい。だから、僕は自分に期待している。

そんなわけで、僕は、人に褒められたことを続けていこうと思う。それはこの拙い文章だったり、下手な歌だったりである。

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