学修で学んだ かしもの・かりもの ~当たり前ってありがたい~ 宇陀分教会 小西正純


はじめに

はじめまして。
私は現在、非常勤として仕事もしながら、自教会や大教会の御用をさせていただいております。

そんな中、先日、「学生生徒修養会 大学の部」にスタッフとして参加させていただきました。
今回の学修では、「かしもの・かりもの」がテーマだったのですが、様々なお話やグループワークをスタッフとして一緒に通る中で、私自身学ばせてもらえた点が沢山ありましたし、「ありがたいなぁ」と勇ませてもらいました。学修を通して、いろんな先生方から素敵なお話を聞かせていただけたので、今回はそのことについてご紹介したいと思います。

かしもの・かりものについて

だれもが自分のものであると思って使っている身体ですが、天理教では、神様からの「かりもの」と教えられています。そして、心だけが自分のものであり、自由に使ってもよいと教えてもらっています。
では、何のために貸してもらっているかというと、「陽気ぐらし」の実践となります。
遠い遠い昔に神様は、“人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい”と思って、人間と世界をお創りくだされ、今もなお私たちが元気に暮らせるように、身体をはじめ世界に至るまでご守護くだされています。

…とまぁ、教理を述べたわけですが、教会で生まれた人などは、一度は聞いたことのある話だと思います。
正直、私も、最初にこのテーマを聞いたときは、「あぁ、かしもの・かりものね。うんうん、知ってる。」くらいの気持ちでしかありませんでした。

でも、当たり前になっていない?

神様から借りているこの身体ですが、普段の生活の中では、身体が動くことが当たり前になっていて、ありがたいとは思えないことが多いかと思います。私自身も日常生活を過ごす中で、それは普通のことであり、特に何も感じることなく過ごすことの方が多かったと思います。

そんな中、聞かせてもらったお話にこんな例えがありました。
今から3つ質問をします。
1 まず、普段当たり前と思っていることを3つ想像してみてください。
→例えば、“目が見える”、“歩ける”、“ご飯が食べられる”とかでしょうか。
2 次に、1つ夢が何でも叶うとしたら、どんなことがいいですか?
→大金持ちになりたい、有名女優と結婚したい、何でも構いません。ちなみに、父にこの質問をしたら、「宝くじで7億円当たらないかな~」って言っていました(笑)。
3 最後に、①と交換で②の願いを叶えてくれると言われたら、それでも願いを叶えてもらいますか?

こうなると困ったものです。おそらくほとんどの人が、「それならいいです」と断るのではないでしょうか。
それは、①の当たり前だと思っていることが、②の願いと同じくらい価値のあり大切なものだからです。

また、お話では、医師である井村和清さんの「あたりまえ」という詩を紹介していただきました。
これは32歳という若さで妊娠中の妻と1歳の娘を残し、がんで亡くなった井村さんが、闘病中に残した詩です。

あたりまえ (井村和清)

あたりまえ こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう。

あたりまえであることを
お父さんがいる、お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いていける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせなことがあるのでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます。

食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気を胸いっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、
みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、
それを失った人たちだけ

なぜでしょう
あたりまえ

これらのお話を聞いて、私はすごく心を打たれ、「確かに…」と とても納得させられるものがありました。

何気なくしていることも、実はありがたいこと。
失ったときに初めて気付きます。

気づいていないだけで、こんなにご守護で満たされている
お道の信仰の素敵なところは、「かしもの・かりもの」の教理を知ることで、失う前にそのありがたさに気づくことができることだと思います。

先程も述べましたが、私たち人間は、“陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい”と思って親神様がお創り下さいました。なので、陽気ぐらしができるようにと、私たちの身体や身の回りのものを貸してくださっています。

例えば、眼は、美しいものや楽しいものを見て感動するために
手は、働いたり、誰かを手助けしたりするために
口は、言葉で人を勇ませるために
といった感じでしょうか。

他には、身の回りのものもそうです。
皆さん、白ご飯ってありますよね。ご飯って、実はじっくり噛めば甘いんです。
こうやって“ご飯の甘さ”を感じられるのも、神様のご守護のおかげです。
でも、忙しかったりして食事をかき込んで食べていたりすると、白ご飯の甘さには気づくことはできません。

このお話を聞いたとき、私は「気づいていないだけで、実はこんなにご守護で満たされているんだ」と感じました。
だからこそ、まずは神様のご守護やご恩に気づかせてもらうことが大切なのだと思います。

心が澄んでいたから、ご守護に気づくことができた

今回の学修での体験を通して、自分の身体は当たり前ではないということに改めて気づかせていただき、うれしく感謝の気持ちになりました。
そのことに気づけたのは、学修を通る中で心を澄ましてもらい、ご守護を感じることができるようになったからだと思います。お道の御用を通して心のほこりが払われて、ご守護に対する感受性を磨いていただいたように感じます。

では、どうしたら心を澄ますことができるのかというと、おぢばや教会に足を運ぶことだと思います。
そうして、おつとめやひのきしんなどを通して、ほこりを払い、心を澄ますことができるのだと思います。

気づいていないだけで身の回りにはご守護がたくさんあります。
当たり前だと思っていることって、実はすごくありがたいことなんですね。
そのことを忘れないよう、これからも教会につながりお道の御用をつとめさせていただき、ご守護を感じるアンテナをしっかり立てて、日々感謝して通らせていただきたいと思います。

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