「自ら信仰を求める」岡山教区学生会 藤本勇介


はじめに

はじめまして。天理教岡山教区学生会委員長の藤本勇介と申します。この度ありがたくもご縁をいただいて、「おはなしバトン」に投稿させていただくことになりました。拙文ではありますが、ご一読いただければ幸いです。

受動的だった自分
 私は教会長である父と、大教会などで女子青年を経験し、教会に嫁いできた母との間に生まれました。つまり教会子弟にあたります。しかしながら、お道に対して中々前向きになることができていませんでした。お道から離れようとしていたわけではありませんが、どこか受動的なところがあったように思います。朝起きたら朝づとめをつとめ、ご飯を食べて学校に行き、帰ってきたら夕づとめをつとめ、お風呂に入ってご飯を食べて寝る。これを「当たり前」のように感じていました。
 
 

受動的から能動的に

 そんな私の転機は、大学2年のときの学生生徒修養会大学の部(学修)でした。それまでは中々学修に参加できず、これが初めての参加となりました。この学修では「おつとめを身近に」のテーマの下、4日目のおつとめまなびに向けて、修練の時間以外にもプログラムの合間を縫って、班員同士で教え合いながら練習を繰り返しました。そしておつとめまなび当日を迎えました。塾生で十二下りをつとめ終えたときのあの陽気な気持ちは、今も深く心に残っています。おつとめを通して、人の助かりを願おうと考えていた私ですが、むしろ自分自身が助けられたように思いました。

離れていても

 この学修でおつとめの意義を学び、実感した私は、自教会の月次祭にもっと参拝しようと思いました。私は大学進学を機に岡山を離れ、中々教会に帰ることができていませんでしたが、もともとおつとめの手が足りていなかったですし、やはり学修を通して「自ら」おつとめをつとめさせていただきたいというように考え方が変わったことがとても大きいと思います。
 そして、しばしば教会に帰るようになったことで、家族との会話も増えました。両親から近況を聞いたり、私が大学や学生会などの話をしたりすることで、普段住んでいる場所の距離は離れていても、「心の距離」は近いままだ、ということを改めて実感しています。

おわりに ~春学に向けて~

 大学3年になって岡山教区学生会の委員長の命をいただいた私は現在、春学に向けての準備をスタッフとともに進めています。また同時に、春学に向けての「理づくり」を皆でさせていただいています。私は、奇数日はよろづよ八首~六下り目、偶数日は七下り目~十二下り目のてをどりまなびをさせていだだく、と心定めをしました。前向きな気持ちで式典の日を迎えたい、春学に参加してくれる会員さんを迎えたい。そう思ったときに、自身がおつとめを通して信仰に前向きになったことを思い出しました。式典の日を楽しみに、毎日を前向きに通らせていだたきたいと思います。

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