人は井戸に何を見たか

「井戸」と聞くと番町皿屋敷やリングといったジャパニーズホラーが浮かんでしまう程度にはホラー小説や説話を嗜んでいる活字中毒者な私。井戸の底は暗くて見えないと言うのが人々の想像を掻き立てるのだろう。が、それでは面白くないので、今回は井戸が登場する日本と西洋の説話について語ってみようと思う。

去年の秋、京都東山区にある六道珍皇寺に行ってきたのだが、そこには黄泉がえりの井戸というものがある。六道珍皇寺は創建当初、真言宗の寺だったが現在は臨済宗建仁寺派に属する禅寺で、地元では「六道さん」の名で親しまれている。東山といえば今は銀閣寺を始めとした名所が多く、連日観光客が押し寄せている。しかし平安時代には鳥辺野(とりべの)と呼ばれており、死人を埋葬する火葬場であったと同時に、あの世とこの世の境目とされた場所とされていた。死の穢れを極度に恐れていた平安人にとっては、近寄るのも嫌な場所であるため、人が住むこともない荒地だったのではないかと想像される。

この六道珍皇寺の黄泉がえりの井戸には平安時代の貴族・小野篁が井戸を通って現世と冥府とを行き来していたという伝説が残されている。
後世に編纂された複数の資料によると、昼間は京都の御所で官吏として働き、夜は地獄へ降りて閻魔大王の補佐をしていたと記録に残されている。正確にいうと六道珍皇寺の井戸から入って冥府へ降り、帰りは嵯峨の福正寺(明治時代に廃寺)の井戸から戻ってきたと資料には残されている。今なら勤務超過で労働基準監督署から指摘が来そうな案件だし、そもそも過労死するんじゃないのか?と思ってしまうのだが。

話を戻すと、今昔物語集では時の右大臣・藤原良相が病に冒されて地獄へ迷い込んできた際に篁の助命嘆願のおかげで現世に戻ったと記されており、江談抄という資料によると篁が助命嘆願したのは死亡した藤原高藤であると記されている。

その他にも源氏物語の作者・紫式部が人間の愛憎を書いたという罪で地獄へ落とされそうになった時には、源氏物語の文学的価値を説いて減刑させたという伝説が残されている。これは篁の墓の隣に紫式部の墓があることから生まれたのではないかと言われている。

もちろん真相は藪の中ならぬ井戸の中なのだが、小野篁ならやりかねんというのが当時の人の感覚だったようだ。彼を語る上でのキーワードは野狂(やきょう)。現代風にいうとド変人とか変態と言ったところだろうか。

「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船」

百人一首で有名なこの和歌をはじめ、漢詩にも長けており、書の名手であり、弓馬にも優れ、頭の回転が早く、実務能力も高い。頭も良くて運動神経もいい、孝行息子で、お金への執着がない。いうなればハイスペックなパーフェクトヒューマン。

これだけを見ればどこがド変人なのかと思うかもしれないが、ここからが野狂の本領発揮。悪ふざけで前述の藤原高藤に百鬼夜行(簡単にいうとあやかしによるパレード)とバッティングさせるわ、主君である嵯峨天皇の悪口をしれっと落書きするわ、その落書きを嵯峨天皇に詰問されたら舌先三寸で乗り切るわ、イノシシ退治をするわと伝説にいとまがない。

極め付けは遣唐使という中国の皇帝への使者の役目を与えられながら「俺、行かないもんねー」とバックれて、職務放棄して家に引きこもってしまったのだ。これに関しては本来乗船するはずだった船でなく、破損した船に乗れと無理強いされたことへの抗議だったとも言われている。そこで大人しくしていればよかったものを、遣唐使を風刺する漢詩を作っていたことが宮中にバレてしまい、身分を剥奪された上に島流しの刑になってしまったというオチがつく。長いものには巻かれろ的な日本人には珍しい反骨精神の持ち主だった(後に許されて都に戻っている)。

そんな反骨精神の持ち主だからこそ、人間の善悪を裁く閻魔大王の補佐にふさわしいと人々に思われたのかもしれないなぁと考えたりする。ちなみに私が好きな漫画・鬼灯の冷徹に登場する小野篁は、平安貴族にあるまじき天然パーマで仕えているのも閻魔大王ではなく十王のひとり・秦広王の補佐官という設定。野狂、というよりも別のベクトルでアホの子なのでおすすめである。

では、西洋ではどうかというと「ホレのおばさん」というお話がグリム童話に収録されている。このお話でも井戸は異界をつなぐ存在として登場するのだが、前述の黄泉がえりの井戸とはかなり意味合いが異なってくる。ストーリーはこうだ。

あるところに継母と二人の娘が住んでいた。姉は前妻の娘で美しくて働き者、妹は継母の実子で怠け者。当然のことだが継母は姉を召使い同然にこき使い、妹ばかりを可愛がっていた。ある日、姉は井戸で糸巻きを洗っていたのだが、うっかり井戸の中へ落としてしまった。それを聞いた継母が「井戸に入って取ってこい!」とブチ切れ、姉は途方に暮れて井戸に身を投げてしまう。

姉が目を覚ますと、目の前には美しい草原が広がっていた。糸巻きを探そうと歩いていくと先々で助けてくれと懇願された姉は、パン釜からパンを出し、りんごの木を揺すって実を落としてやる。そしてホレのおばさんの家にたどり着いた姉は、おばさんの家で働くようになった。羽布団を揺すって寝床を直すなどの仕事を喜んでやっていた姉だったが、しばらくするとホームシックにかかって「帰りたい」と思うようになった。それを聞いたホレのおばさんは姉が探していた糸巻きを見つけて返してやり、よく働いてくれた礼として姉の体を黄金に包ませて帰した。

糸巻きを探し当てた上に黄金をどっさりと持って帰ってきた姉を見た継母は、実子である妹にもできるはず!と考え、妹をホレおばさんの元へ送り込む。ところが元々怠け者の妹はパンとりんごの懇願を無視し、ホレおばさんの家でも怠けていたため、怒ったホレおばさんによって全身に真っ黒いコールタールを塗られて泣きながら帰ってきた。体に塗られたコールタールは死ぬまで取れることはなかったという。

同じように井戸から異界へ行ったのは黄泉がえりの井戸と同じだが、非常に教訓めいたストーリーになっていると思うのは私だけだろうか?いい事をすればいいことが帰ってくるし、怠けていれば罰が下る。コールタールまみれの妹を嫁にしたいという男はいる訳ないし、それ以前に農耕社会において怠け者では食うにも困るからという事情もあっただろう。偏愛するあまりに実子の将来をメチャクチャにしまった継母はこの後どうなったのだろうか……と想像せずにはいられない。

編纂された当初のグリム童話はかなりダークで、悪い事をしたり人を傷つけたり嘘をついた者には非常に厳しい(この辺は日本昔ばなしも結構酷いが)。世間のニーズを取り入れながら長い年月をかけて現在我々が読んでいる内容になったのだから、挿絵が萌え絵だと文句を言う頭の固い人たちは原典をまず読めと言いたい。それでもグダグダ言うのなら、サクッと井戸に落っこちてしまえばいいと思う。

私がホレのおばさんという物語を知ったきっかけは、Sound Horizonのアルバム「Marchen(メルヒェン)」である。童話をモチーフとし、生と死の境界線を超えてしまった歌姫たちの復讐、歌姫たちを率いるコンダクター役の男の運命を描いた幻想物語。この楽曲を元にコミカライズ化もされているので、気になる人は手にとってみてはいかがだろうか。

以上。参考になれば幸いである。

#3000文字チャレンジ #3000文字井戸


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