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松っちゃんが考えるラッキー論から、あらためて、問題になっている一連の行為を考察してみる

人が「ラッキー」と思うことなんて、ごくごくシンプルな事象に関してでいい。いいはず。

「自販機で飲み物買ったら、2本出てきた。ラッキー」
「たまたま映画を観に行ったら、サービスデーだった。ラッキー」
「たまたま入ったカレー屋がめちゃめちゃ美味かった。ラッキー」

異論はあるだろうか。ラッキーの種類はそれぞれ微妙に違う感もあるが、その人がそう思ったならそれで別にかまわないはず。ただ、松っちゃんに言わせると、自販の件はいいとして、映画やカレー屋の件は違うということになるらしい。

いわく「お前が行かなくても、サービスデーだし、そのカレー屋は美味いから」

「お前はどんだけ自意識が強いねん?」ということにもなるらしい。

「じゃあ、(その時点で)お前以外の人間はみんなアンラッキーになるのか?」とも。

言わんとしてることはわからなくもないが、ちょっと変わってる思考。ツッコミどころはいくつも出てくる。その理屈で言うと、自販機の件だって、それを利用しなかった人間みんなアンラッキーということになるはずだが、彼はそうは言わない。

で、そういった思考──ラッキーとアンラッキーは世間において、広大な地続きで繋がってるという彼流の思考──から一連の問題を考えると、こういうことになるだろうか。

「オレと飲み会で会えた女はラッキーで、それ以外の女はアンラッキー」

松っちゃんの定義によると、ラッキーの幅は相当狭いということにもなりそうだ。一世一代の事象、伝家の宝刀を披露するぐらいの行為、流れ……。こういう考え方が根底にあるなら、彼の一連の言い分は腑に落ちてくる。そういうことだったか。


そんなわけでここからは私事のラッキーにまつわる思い出話を。昔(いまから20年くらい前)、こんなことがあった。雑誌でアイドルのお宝グッズを扱う恒例のページ企画があり、ライターとして自分が担当していた。毎回、基本的にはカメラマンと一緒にお店に行って商品を撮らせてもらうわけだが、あるとき、カメラマンのスケジュールが見えず、「2、3日ならいいですよ」と20点ぐらい貸してもらえることになった(総額20万円くらいの品々)。後日、出版社の一室でそれらを撮影。終了後すぐに返しに行こうと思ったのだが、時間を見たら店の閉店ギリギリ。ま、明日でいいかと思い、グッズを紙袋に詰めて(ギュウギュウに詰めて二袋ぐらい。クルクル巻いたポスターが多かった)、それを持って帰宅しようと思ったところ、カメラマン氏に「ちょっと飲んでいこう」と誘われ、応じることに。
結局、2時間ぐらい飲食したんだったか。いい感じに酔っぱらい、飲み屋を出ると、自分のカバンと袋2つ持って電車に乗るのが億劫になった。タクシーで家まで帰ることにし、
止めたところ、ドライバーが30代後半くらいの女性。酔いのせいもあり、車中、機嫌よくいろいろお喋り。中野の自宅近くの通りで気持ちよく下車……したまではよかったが、歩いてるうちにお宝の二袋がないことに気づく。「やば、車の中に忘れた!」。それは間違いない。運転席の後ろの下の空間。慌てて通りに戻るも、当然タクシーはいない。1分、2分、3分、いや、もっとか。わりに車数の多い通りを前に呆然と立ち尽くし、“仕方ない、20万円分、自腹で買取りするしかないなあ”と考える。と、その矢先、反対車線に急停車の勢いで1台のタクシーが止まったではないか。“まさか?”。運転席の窓から顔を出したのは、はたして、さっきの女性ドライバーさんだった。

自分の中では人生におけるかなりな“ラッキー話”だが、松っちゃんに言わせると「自分でやらかしておいて、そんなのはラッキーじゃあらへん!」ということになるのか。

ネットより「ラッキー」の定義。まぐれ
や、運の良さもラッキーに含まれる由




松っちゃんのラッキー論がわかる動画(『放送室』より)はコチラから↓


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