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野村克也が大好きだった

石井の不可解な采配に呆れるやら、怒りやらの中、本棚から引っ張り出したこの本。

負けに不思議の負けなし。まさにそのとおり。

ノムさんがいたら、間違いなく石井(言わずと知れたヤクルト時代のノムさんの愛?弟子)に「あの場面、■■(投手)に替えたのはなんでや? 根拠はなんや?」と問うだろう。

ああ、胸糞悪い。石井はこの本を読むべき。絶対読まないだろうが。

ノムさんのこと考えてたら、自分におけるノムさんについて、ちょこっと書いておきたくなった。いや、ほんとにちょこっと。

昭和44年生まれの自分が最初に好きになった野球選手が野村克也だった。正確には監督兼選手。小1のとき(昭和51年)、フツーに野球に興味を持つようになって、草野球みたいなものもやるようになって、いろいろあって「なんて、かっこいいんだ!」と子供心にヤラれたのが野村克也。

すぐに南海の帽子を買い求めた。以下、以前ツイートしたものより。

本題には関係ないが、あらためて調べたら、昭和51年には苫小牧にはすでに長崎屋はあったようだ。大昔のローカルネタ。

ノムさんのことを書くと言ってなんなんだが、野村克也のファンになってはみたものの、(当然のように)まったく友達とは話が合わず。というより、自分自身、南海もノムさんもわかってなかった。パ・リーグには縁のない北海道の田舎の小学生には無謀な試みだった。

そんな中、親戚の叔父さんに「祐二、いま、若トラの掛布っていうのがいるから掛布のファンになれ。阪神のファンになれ。阪神なら友達と話合うだろうよ」と勧められ、そこから阪神ファンに。

それでも野村克也という存在は気になり続けて(ホークスも)、テレビに出てたら熱心に見たりした。1990年にヤクルトの監督になったときは、阪神ファンながら巨人とヤクルトの試合は努めて見るようにした。

そうこうしてるうちに、1999年からノムさんは阪神の監督になってしまった。自分なりにあのときは否応なしに運命みたいなものを感じた。

2001年頃、一時つきあった子がなかなかの金持ちの娘で、親(祖母だったか?)の仕事の関係でサッチーと知り合いということで驚いた。

年の差ありまくりだし、「仲良し」はちと違うか。ただ、「この前、一緒にサウナに行ってきたんだー」てな話を聞かされて、マジかよ!みたいな。

銀座のキャバクラの話も本当。キャバクラというよりは、クラブにちょっと近い店だったか。時期は2007年頃。一応取材なんだから、服装ぐらいちゃんとしとけってことなんだろうが、自分はそういう性分で(いまも)。ついた女の子に聞いたら「ノムさん? ああ、たまに来るみたい」と。結局、アイドルの子には会えなかったが、ノムさんの話で盛り上がり、帰り際には店長さんに「自分も楽天、好きなんですよ。また来てくださいよ」と言われる始末。

阪神ファンをやめて、楽天ファンになったのはノムさん1年目の2006年の夏ぐらいから。プロ野球ファンのアイドルや女優を取り上げる記事書くためにいろいろ調べてたら、高須、鉄平、フェルナンデス、リックと3割バッターが4人もいることがわかり、「楽天おもしろいじゃん。監督ノムさんだし、こりゃ、ピッチャーが揃えば強くなるぞ」と。

加えて、その夏は(厳密には前の年から)甲子園で田中将大がブレイク。苫小牧出身の自分は当然、駒大苫小牧とマー君の大ファンで、周知のように、秋の高校生ドラフトであっさり楽天入り。これはやはり運命だわいと。

当時つきあってた子が熱烈な阪神ファンで、宗旨替えはなかなか容易ではなかったが(苦笑)、そこからは完全に楽天一筋になり、無事今日にいたる。

2009年までのノムさん政権の楽天は弱いながらも本当に大好きだった。最後はしっかり2位になったし。

まあ、こんな感じ。フリがフリなんで、石井采配に対する野村野球の真髄などひとつふたつ書ければいいんだが、無理という。

最後に。自分のツイートでノムさん関連のもの辿っていたら、こんな内容のものを発見した。

ノムさんにまつわる大好きなエピソード……なのだが、2019年のこのときはなにからそれをちょっと想起したのか? まるで記憶になく、恐る恐る上のヤフーニュースのアドレスをクリックしたらコレだった。

こんなニュースもあったなあ。

終わり。


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