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現代日本における地域スポーツチームの社会的意義

はじめに

本記事は、プロ野球独立リーグBCリーグに所属するオセアン滋賀ブラックス応援プロジェクト「BLACK CAMP」代表のやもの行動の原動力を書き連ねたものです。
自分は「滋賀県という地域にとって滋賀ブラックスは重要な役割を担いうる」と考えており、それをサポートしていくことが、自分に課せられたひとつの社会的使命だと感じております。
なぜそこまで強く、ある意味、少々重たい発言ができるのかという事について、本記事を読んでご理解いただけましたら幸いです。

ただ書き連ねると4000文字オーバーと少々分量が多くなり、途中は読みづらい部分も出てきましたので、読むのがめんどくさい人は次の文章であたりを付けて、読んでいただけると幸いです。

現在の日本では、個人と社会との関係が少なくたってきていて、社会の中での孤立とかが問題になっています。
そもそも、社会は個人を縛り付けるものもあるけど、その形態によって個人の健康やストレス緩和にいい影響をもたらすことが分かっています。
なら、スポーツ観戦/応援という趣味を通じて、良い関係を作ればいいのではないかな?
けど、その役割はチーム本体に求められるところと、試合を一緒に見ているファンに求められるところがあるし、ファンにできる事を実践できるといいですね。

はい。このわずか200文字の文章を、以下では20倍に引き伸ばしてお送りします。

地域スポーツチーム論の解釈

地域スポーツチームのあり方が論じられる際には、基本的にマネジメントつまりはその経営(集客含む)や、競技力の向上にその焦点があてられることが多いという印象を受けます。
他方、地域スポーツの社会的意義については、十分に語られることは多くありません。
もちろん、そうした意識については、スポーツ経営等の教科書では触れられはするものの、現代社会の課題に対して与える意義について、社会学やあるいは経済社会学の観点から応用可能性があるのに、十分な紙幅は与えられていないという印象です。

自分は、地域スポーツが現代社会の抱える問題を解決する、とまではいかないが緩和する可能性を大いに持つことを確信しており、本論を展開していきます。
というか、(勉強不足、情報収集力の欠如ゆえに)自分の問題意識を満たしうる論考に出会ったことはないので、似たような趣旨の論考または論者がいるのであれば、ぜひともご紹介いただきたいです。

現代社会の傾向

100年前の日本に高田保馬という経済社会学者がいました。彼は近代化(個人主義や経済主義の進展)に伴い、基礎社会つまりは血縁や地縁による社会が縮小していく傾向を述べました。
それ以前にもドイツのテンニースやアメリカのマッキーバーといった社会学者も似たような主張をしています。いわゆる人が生まれながらにして身を置く家族や地域の「コミュニティ」が小さくなることで、人々が孤立した存在になる事を、あくまで現象として定式化したのです。
この段階ではそうした傾向に対して、強く否定を伴うものではなく、「社会はこのままで大丈夫かなぁ?」程度で、少々いぶかしい目で見ていた程度でありました(テンニースあたりは強く警鐘を鳴らしていましたが)。
結局、家族や地域と個人の関係が小さくなっても、そこから得られていた個人の幸福は、政府や企業(市場)が代わりに与えればよい、と考えられていたからです。

100年前に主張されていた基礎社会縮小の傾向は、皆様も周知のとおり、現代日本に関わらず全世界で確認できます。
その間の経済社会の流れはというと、例えば家族内で行っていた介護や看護や保育が行政/公共サービスに変わり、かつては多くの人が農家であり今より自給自足の側面の強い生活から、外でお金を稼ぎ、そのお金によって必要なものを買う社会に変わっていったのです(いわゆる生産の分業化)。
もちろん、その中で人々は「個人の自由」のもと、消費生活を謳歌するようになり、社会のしがらみも少なくなっていきました。

それでみんなが幸せになったのかというと、そうではないわけです。
1972年に発表されたローマクラブ『成長の限界』にも記されているように、たしかに豊かにはなったけど、なにか満ち足りないという風潮が世界を覆うようになります。

現実に、トマピケティが『21世紀の資本』の中で示している通り、近代の歴史の中で人類社会の経済格差は政府が強力に経済を統制し戦争を遂行し、また戦後は復興に注力する戦争前後を除いて拡大傾向にあり、市場(企業活動)を通した個人の幸福の達成に限界、つまり格差によりその恩恵を得るものとそうでないものの差(いわゆる勝ち組・負け組)が見られるようになりました。
他方、第二次世界大戦後の西側諸国(日本も含む)の福祉国家体制は、政治体制の硬直性や民主主義の機構不全のもと費用膨張と再分配の偏りが生じ、政府もまた十分に国民の幸福に貢献できないという問題に、世界は直面しています。

つまり、100年前に少々いぶかしく見られていた懸念が、実際に表出してしまったというわけです。
本来、生まれながらに平等に個人の身の回りに存在していた社会が傾向的に縮小し、同時に社会から与えられる個人の厚生は小さくなりました。
かたや、市場を通した財やサービスを享受する量は、個人の所得に依存するものですから、傾向的に拡大する経済的な格差が直接的に個人の幸福を規定します。
本来でしたらそうした市場の失敗は政府によって補完されることが望まれますが、官僚機構の縮小が求められる中で、必要な箇所に十分の保障はなされていません。

18世紀から20世紀にかけて人類の発展と個人の幸福を牽引してきた市場と政府という機構は、21世紀という時代において見直しが必要とされています。
それと同時に、その時代において傍流に置かれた社会というものが個人に対しなしうる役割について再評価が必要になってきていますし、実際に社会(コミュニティ)を再興しようという動きが生じています。

社会の役割

そもそも社会が個人の生活でどのような役割を担いうるのでしょうか。

これに関しては、社会学、経済学そして医学(疫学)など様々な見地から指摘がされています。
これらはソーシャルキャピタル(社会関係資本)論としてまとめられてはいるものの、いささか体系性にかけ、正直、それらを網羅し類型化することは困難を極めますので、自分の考えをなるべくシンプルにお伝えできればと思います。

個人と個人の繋がり(ネットワーク・関係性)の間には何らかの規範があり、それが個人の行動とストレスに影響を及ぼします。
規範と言うと難しく聞こえるかもしれませんが、関係性の属性のようなもんです。
家族という社会なら規範の一つに慈愛というものがあるでしょうし、友人関係なら友情も重要な規範です。
その規範に則り人々は行動をします。
ただ、いかなる関係においても多かれ少なかれ統制は含まれるものでありますし、統制が大きくなると個人の行動を大きく制限したりゆがめたりする結果になります。

ここでもう一つ強調したいことは、社会は個人の生活(行動)に対して、良い事もあれば悪い事もあるという事です。
疫学者の近藤克則は社会関係の性質が個人の健康とどのような関連があるか研究成果を示しています。特に強い統制の規範を持たない水平的な社会関係(趣味・スポーツ・ボランティア)であれば概ね個人の健康と関連しており、垂直的な社会関係(町内会・老人会・宗教・政治)であれば個人の不健康と関連しているというのです。

つまり、基礎社会が縮小して、個人が孤立しやすい状況においても、個人が趣味等を通じて水平的な社会の中に身を置くことができるのであれば、それは個人に利する事に繋がるという事です。
戦後ドイツの経済学者であり政治家であったA.リュストゥは「我々のあらゆる困難や不安は社会的過小統合から生じる」という言葉を残しています。
消極的な言葉ではありますが、含蓄が深く、私が最も好きな言葉です。
つまり、個人が社会と「適切に」統合されているのであれば、困難や不安は解消とまではいかなくとも緩和できるという事です。

地域スポーツの社会的意義

これまでの議論から地域のスポーツチームの社会的意義について論じていきます。
私の親戚である滋賀県某市の市長が言っていたことが如実にその社会的意義を示しています。
「うちの市では高齢者の男性の閉じこもりが問題でね。スポーツはできなくても見る事が好きな人は多いはずだから、ユナイテッド(現、滋賀ブラックス)でもレイクスでもミーオでもファンになって見に行ってくれればなぁ」

基本的にスポーツチームはそのビジネスモデルとして、興行として試合を行い、スポンサーとファンから収入を得ます。
これらのステークホルダーは、チームを中心とした社会を構成するわけですが、先にも挙げたようにその形態によって、追加的にファンに利する価値を提供できる可能性があります。
ですから、先の市長の発言のようなひとつの社会問題も解決とは言わずとも、緩和する可能性を大いに持つわけです。
スポーツチームの存在が、生活に意欲を与え、はたまたそこでできたファン同士のコミュニティによりストレスが緩和できれば、これはスポーツチームが地域に提供する、かなり重要な価値になりうるのです。
むろん、そうした社会関係の構築によって居場所を構築することができれば、企業として継続的な顧客ともなりうるわけです。

地域スポーツを通した社会関係構築の担い手

では、社会的関係を作る際に、その担い手は球団なのかというと、ファン自身もその役割を担わないといけません。

たしかに、球団は球場というハコモノで試合というイベントをやるのですが、そのイベントを通して具体的なファン相互のコミュニケーションは多く発生しません。
むしろ、球団主導でコミュニティを創出するのであれば、それはおそらく試合の中ではなく、外での取り組みになろうかと思います。
BCリーグであれば、埼玉武蔵のベアーズカフェや茨城の頻回のファンミーティングなどがそれにあたりましょう。

試合という場を使って、水平的なファンの繋がりを作るのであれば、それはおそらくファンがなす事なのです。
特に既知の情報や視聴覚的な演出に乏しい地域リーグでは、基本的にひとりひとりの個人は孤立しやすいです。
NPB1軍の試合や概ね観客動員1500人を超えるような試合の場合は、個人は大衆の一部になるのですが、観客が少ないと孤立がストレスになりうります。
特にトップリーグに通いなれている人ほど、強くストレスを感じます。ただ、それこそが水平的なファンの繋がりを作る最大のチャンスなのです。
例えば、そんな試合に行って「試合で人と話せた」という経験は、かなりストレスを緩和できます。
別に仲良く何分もくっちゃべる必要はないのです。「こんにちは。」「今日も勝てるといいですね」「○○選手、調子いいですよ~」この数往復の会話が、実はなかなかの価値なのです。
「話した/話せる人がいる」という人と横のつながりの安心感は、トップリーグの試合では感じる事のないものでしょう。
試合とシーズンを通じて共通的な体験を得る事で、縁はより強固なものへとなっていき、そこから得られる満足は増大していきます。
ただの会話からお友達になり、様々な価値を共有できる関係に発展しうるわけです。

いわばこれこそが21世紀の日本社会で創成が可能な新たな社会の縁だと考えます。
社会的地位や年齢や所得が違っても、球場に行けば「平等」に得られる縁を作り出すことができる。
これが現在の地域スポーツチームに課せられた使命であり、チームが存在する社会的ないぎではないでしょうか。
自分自身も、ファン活動を通してそうした縁を広げられるよう、滋賀で社会を構築できるよう、邁進していきたいですね。

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