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「良い応援歌とは何か?」を考えてみた

「良い応援歌とは何か?」
独立リーグながら応援団に関わった人間として何度もうんうん悩んだテーマです。

このテーマについて少し考えたので、文章としてアウトプットしてみたいと思います。

応援歌の要素

応援歌の要素としては「曲」と「歌詞」はもちろん重要な要素なのですが、ここに「環境」「文化」「目的と手段」という要素を追加して考えていきたいと思います。

まず応援歌を奏で歌う「環境」が影響します。
その応援歌はどのような楽器の編成で奏でられ、何人の人が歌うことが想定されているのでしょうか。
奏者のレベルはどのようなものでしょうか。
どんな球場で演奏される事を想定しているのでしょうか。

また応援は一過性のものではなく連綿と長年にわたって引き継がれる「文化」があります。
次に文化です。昨日まで民謡を歌っていた人にパンクロックを歌わせることはできません。
音符(特に16分や付点8分)の使い方や数、コード進行、歌詞の節回し、これらは球団や作曲者によって偏ります。
「この応援歌○○(球団)っぽい」というのはそういうところからくるわけです。
基本的にスポーツチームのファンは特定のチームを応援するので、「偏り」の中に身を置くことになります。
曲だけでなく、コールの内容や応援歌・チャンテの発動条件、スタンドの雰囲気など、「偏り」は次第に「文化」へと昇華します。
この「文化」をどう考えていくかも大事です。

まず応援歌には「目的」があります。
応援歌の目的なんて「そりゃ選手を応援する事」でしょ?
これはもちろんそうなのですが、じゃあ応援が伝わるためには具体的に何をすればいいのという「手段」も考えないといけません。
選手に「より大きな声を届けるため(目的)」には「ここの部分はシャウトにしよう(手段)」とか。
選手をより大勢で応援するためには「初心者も歌いやすい方がいい(目的)」という事であれば、「音符を少なくしよう(手段1)」とか「歌詞をわかりやすくしよう(手段2)」とか考えるわけです。

これらの要素を鑑みるに、基本的にはスタジアムでのパフォーマンスに重きを置いて、応援歌というのは考えられているのです。

だから時流に乗った「かっこいい曲」と選手への思いを詰め込んだ「歌詞」だけでは、「いい応援歌」にはならないのです。
それは先に挙げた「環境」や「文化」や「目的」や「手段」が複雑に組み合わさった末の産物として、「これは『良い応援歌』だ」と個人の中に湧き立つ者だと思います。
それが多くのファンが思ったのなら「名曲」として語り継がれる事になるでしょう。

滋賀球団で自分が作曲した時に考えていたこと

自分が作曲したのはジャクソン(19)・長谷川(21-22)・大田(21)・池田(21)の4曲です。

原則として、滋賀は声出しファンが少なく、少ない人数で選手に声を届けないといけない状況でした。
なので、声を合わせて気持ちよく歌えるフレーズは必要だと思い、ジャクソン、長谷川、大田は作曲しています。
ジャクソンだと1・2/5・6小節目の「ジャクソン ジャクソン・バレラ」、長谷川だと3・4小節目「長谷川勝紀」、大田だと5・6小節目「オオオー…」ですね。
「選手名を気持ちいいフレーズに乗せたい」という思いから、ジャクソンと長谷川は曲作りをしているので、曲の中で最初にできたフレーズはその部分で、残りの部分は肉付けしたにすぎません。
大田はみんなが歌詞を知らなくても歌えるシンガロングの箇所を作りたいと思って、自分が楽しくなるノリのいいフレーズを作り、前後にメロディを付けた感じですね。

池田だけ作曲の過程が違い、昨今はSNS上で人気な応援歌を自分なりに勉強して(話題になれば滋賀球団に注目が集まるので)、団長の「かっこいい応援歌は付点八分の使い方がうまい」というコメントをエッセンスに加えました。
その結果、付点八分だらけのSNSでも対して話題にならない曲になってしまいました。
いや、自分は自分なりにみんなに注目される曲を作ったつもりだったのですよ。

結果としては長谷川、大田の評判は良かったと思います。
コロナのせいでほとんど歌えなかったですけどね…。

ともあれ、NPBの応援歌にしろ、サッカーのチャントにしろ、先に挙げた要素に作り手の狙いも考えながら楽しんでみたら、スポーツ応援はもっと楽しめるのではないでしょうか?
作る側も作る側で色々考えているのです。


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