見出し画像

【ネタバレ批評】ノベライズ版『ちょっと思い出しただけ』で追う作品世界の全貌。

「ちょっと思い出しただけ」を好きになりすぎた私は既に映画は鑑賞2回。ドラマ世界からなかなか抜け出せなくなり最後はノベライズを読破しました。今では続編のストーリーまで考え始めてしまっています。このままで終わってもらいたくありません。
さて、ノベライズは脚本から起こした小説ですから、映画では不明瞭だった場面の描写や作者のメッセージ、意図、俳優のアドリブ部分まで網羅されています。

ノベライズ版

まず見開きに下記「ナイト・オン・ザ・プラネット」でのセリフが掲げられています。実は再三取り上げたタクシー内での二人の口論とそこに込められた
野原葉の思いが集約されています。でも葉は果たしてこの言葉を心にしっかり抱いていたのか……
①では「ナイト・オン・ザ・プラネット」は本作と無関係と書きましたが、劇中では価値観の相違、すれ違いになる場面で二人はお互いにこの映画から引用し、関係大ありでした(スイマセン!)

さあ!これを読めば『ちょっと思い出しただけ』の全貌がわかります!
※(太字ボールド)がノベライズからの引用です。

ノベライズの冒頭にこれが。

第1章 2021年 7月26日 月曜日『月曜日』

・ジャパンタクシー

21歳の子持ちギャル

ここではコロナ2年目2021年の夏、五輪が始まった東京の夜。葉は前年から車種変更になった黒塗りのJPN TAXI(ジャパンタクシー)を走らせ、歌舞伎町で3才の子持ちでオーバードーズ明け21才のギャルを乗せる。重たい話題を投げかけられ同情するが、逆に「お姉さんは?幸せ?」と問われると即答出来ない。頭に浮かんだのは『ナイト・オン・ザ・プラネット』劇中でのウィノナ・ライダー扮するタクシー運転手コーキーのセリフ「そりゃ運転手だけで終わる気はないわ」だった、そんな一本スジが入った格好良いコーキーの生き方に憧れていた。そんな頃があったなと葉はぼんやり記憶をたぐり始める。

・千駄ヶ谷

赤羽橋付近でギターケースを携えたミュージシャンを乗せる。その佇まいに、いつかどこかで会ったような懐かしい気持ちになる。それもそのはず、ふたりの出逢いの場面に彼は路上ミュージシャンとして立ち会わされていたのだ。彼は女性ドライバーが珍しいようで、訳ありかと勘ぐり、コロナでの失業かと心配してくるが、このやり取りで葉が現在30才でキャリア9年。つまり21才からタクシー運転手業に就いている事が判明。コロナ禍中のオリンピック開催でタクシー業界が困窮していることと、音楽業界もライブ中止の憂き目に遭い苦労が続くなどの会話。
彼に道中トイレを希望されたことで、コンビニでもいいはずが、まるで呼ばれたように『座・高円寺』に車を停める。葉は乗客を待つ間に興味本位から場内のステージまで覗いてしまう。そこには無人のステージで一心不乱にダンスに興じる照生の姿があった。葉はその姿にひどく息苦しさを感じたがその胸の痛みは苦いけれどどこか甘かった。印象に残るとてもいいシーンだ。

思いがけない照生との再会


・ベンチ

深夜、自宅でTV放送の『ナイト・オン・ザ・プラネット』を観る照生。
帽子を後ろ前に被りガムを噛みタバコをパカパカ喫うタクシー運転手コーキーの姿が好きで、映画のファンとなり、思い入れたっぷりに額装したポスターを部屋に飾っているほど。
夏にも関わらずクーラーは体質に合わないので扇風機を使っている事やマンションは築53年で3階建てであること。物語のキーになる照生の部屋にあるフィリップ式時計はTWEMCO製であることも記述がある。いつもの朝のルーティーンから照明スタッフとして出勤する姿。遊歩道公園のベンチに座り未来からの妻を待ち続けている中年男性のジュンもここで初めて登場する。それにしても照生の足の具合はどうなのだろう、ケガから3年経っている。この場面では足を不自由にしている描写はない。それがあの場面への布石で「そろそろ試しに踊ってみようか」と考えるようになっていたのかもしれない。

・劇場

ここで照生はフリーの照明助手と記述がある。だから現場は日々まちまちで、この日はたまたま『座・高円寺』の仕事であった。職場で寝不足な事を漏らすと先輩の牧田に「あれ?祝ってもらっちゃった?」と探るように言われたが「ええ、朝までもうパーティです」と照生は適当に話を合わせている。
やはり今年の誕生日は一人で過ごした事がわかる。ここで文中にはそれまでは0時になるや誕生祝のLINEが速攻で来ていた過去にも触れているが今では牧田ぐらいしかその話題にふれてくれる人もいない様子。——つまり現在新たな彼女はいないことになる。
本日のステージは以前照生が在籍したダンススタジオの後輩泉美のダンスだった。ステージ後の撤去作業が終わるが、観客席は退出完了で無人。ステージ側にも見回すとスタッフもいない。素灯りが灯るステージを眺めた照生はこれを「神様がくれた時間」と感じ衝動的に素足になり、ダンスを始める。誰もいないと思っていたが、そっと観ている人物がいたのだった。
——ここでは転身した照明業が案外気に入っている旨の記述がある。

照明技師に取り組む


第2章 2020年 7月26日 日曜日『日曜日』

・モンジャ

ここでは2020年から日本を襲ったコロナ禍に関して日常が変わった様子を描いている。
照生は軒並み公演が中止となり打ち合わせも在宅でのリモート会議。
緊急事態宣言でライブエンターテイメント業界の人間は急に仕事が出来なくなった状況に、失望と脱力状態に陥ったが照生は足のケガで似たような失望感は体験済みで、それよりはマシと考えている。気になるのは「そこから立ち上がりかけた矢先」との記述で、照生の足が回復に向かっているかのように感じさせる。持続化給付金申込みの記述もある。
そして仕事もお金もない中で体重だけが増えている旨の描写がある。

・飛沫シート

本格的なコロナ禍。オリンピックへ向け車種が黒塗りのハイブリッド・カーJPN TAXI(ジャパンタクシー)に替わっている。営業の準備で葉が飛沫シートを車に装着し周囲の同業者がコロナ禍に困惑し愚痴を口にしている描写がある。
「待つしかないだろ」「仕方がない」と嘆く周囲に対し「だがいつしか“待つ”事の意味や、待っても来なかった時の対処法を葉は知るようになっていた」「葉がそれを知った時の物語はこれからはじまる」と思わせぶりな記述がある。

第3章 2019年 7月26日 金曜日『金曜日』


・ケーキ

照生の朝のルーティーンのさなかにモンジャが押し入れから葉からのプレゼントであるべっ甲のバレッタを引っ張り出す。それを照生が手に取ると胸がチクリとなる。外出をするが何の気なくバレッタをそのままポケットに入れていた。
数カ月ぶりの散髪でかなり短く切った照生。ここに「忘れていたものがふいに出てきたときとはそういうものだろう。もう使わないにもかかわらず捨てるのも躊躇して心が揺れる。髪を切った照生にはもうバレッタは要らない。でも髪の毛のようにポイッとはいかなかった」とあり、これは特に男性ならよく分かる心情であろう。

長髪との決別

この日の仕事はライブのリハーサルだが、本日撮影するキャスケットのミュージシャンは初めて二人が会った、高円寺のアーケード街で演奏していたギタリストだ。歌声に記憶があり照生が「どこかで会いませんでしたか?」と尋ねても覚えがないとにべもなく返される。
帰路、ビールのストロング缶をのみつつ商店街を歩くと、そこには友人と外テーブルで飲んでいた泉美がはしゃぎながら声を掛けてくる。照生がダンスをやめた事を知らない泉美は短く切った髪にも触れ、自身が成人した事も報告してくる。場を変え一緒に飲みたがる泉美を「とまり木」に連れて行くが、泉美はここで照生がダンスから足を洗ったことを知る。

泉美との再会

照生自身はあまりそれ以上詮索はされたくなかったので、うまくやり過ごす。泉美は昔から照生のダンスが好きで憧れていた事を口にする。彼女にとって照生は今でも心のヒーローなのだ。
話の流れから照生に現在、彼女がいるかどうかの話になり、その答えとしてバーのマスター中井戸が「……幸せだよ。たくましく生きてる」と訳知り顔でつぶやく。それを観て察した泉美は「そっか、うん、幸せに生きてる」と解ったふうに頷くのだが、劇中では葉を連れた照生と泉美が会った構図はないので、泉美がどれほど葉と照生の事を知っているのかがこの場面ではわからない。だからこれ以降照生にとって泉美と接近する目があるのかが不明瞭だ。いっそ中井戸は「今は自由の身…かな」とストレートに言ってくれた方が両者にとっては良い気がする。このくだりで中井戸の名言「男なんてみんな夢に恋してんだよね」が出る。バースディケーキを躊躇なく食べる照生の姿から「もうウエイトを気にするダンサーではない感」が滲むが泉美はまだ照生にダンスをやめてほしくない思いが強い。照生が辛そうだが、呑みの場自体は盛り上がっている。

とまり木でのバースディ

・アイコン

葉のタクシー会社から場面は始まるが会社が練馬であることがわかる。朝のラジオ体操では照生と一緒にやっていたルーティーンの体操をしている。ここへLINEで友人さつきからコンパの誘いが入る。さつきはこのドラマでは重要な立ち回りを演じており、期せずして照生との出会いもつくり結果的に康太との出会いもつくってしまった存在ということになる。新宿中央公園での食事休憩は後部座席でカップ麺という絵面えずらで、観ていていたたまれなくなったのは私だけか。飲み物はプロテインジュースらしい。
この日は見るからにお金持ちそうな婦人を乗せる。

仕事紹介しよっか?の場面

『ナイト・オン・ザ・プラネット』よろしく「お金欲しいならさ、仕事紹介しようっか?」と誘われるが「お金は必要だけど重要じゃないっていうか。まあ、単純にこの仕事が好きなんで」と答え断り、仕事を切り上げ着替え、コンパに向かう。会場の居酒屋(神田若竹)はエアコンもろくに効かないわ、席もギュウギュウに6人が座る全くイケてない店だった。さして面白くもないトークを喫煙目的で抜け出す葉。斜向いに佇んでおり、タバコの火を借りた恩で康太の会話に付き合い、断りきれずLINE交換をする。劇中では康太に対しこれっきりにしよう感が葉にはあるが、店に葉が戻った次のカットでホテルの場面になる。
これに関してノベライズでは、早速二次会に康太からLINEが入り「コンパに失望している者同士飲み直そう」と呼びかけられ新宿で合流し「康太の陽気さと口の達者さに気をよくして気がつけば新宿のラブホテルに行き着いた」とある。正直酒も強そうな葉なので正体をなくすまで飲むだろうか?「いくらなんでも軽すぎないか」とも思うが、満たされない思いが強いと、その相手にあてつけのような感情も働いてこんな結果になった気もする。康太がベッドから投げかける「あの、僕、一生幸せにするんで」「これ100パー運命なんで」の語りかけは照生と全く質の違う冗談で、やや嫌悪を私は感じた。そもそも男性は一度の性行為ぐらいで「自分のモノになった」と独りよがりする事がまずズレていると思うし、ここまでふたりを「応援目線」で追ってきた筈の観客諸氏にとって康太はふたりの関係を完全終了させる「ちん入者」でしかないはずで、損な役まわりだ。しかしノベライズにはこうある「康太はその腕枕のやわらかな感触通り、どこか憎めない人物だった。このまま康太の望む夏に向かって車を走らせるのも悪くないのかな、などと思いながら、葉は煙草を大きく吸って、煙を吐いた。心にこびりついたアメショーの写真も一緒に吹き飛ばすように」——と。
思わず「葉よ、ここまで来て楽な方に行くのか。前年には辛くても支えるとか言ってなかったか」と諭したくなる私でした。
この場面は、車中での口論での離別以降ふたりが次に向かって進む序章の位置づけなのだろう。

イケテナイ合コン


第4章 2018年 7月26日 木曜日『木曜日』

・赤い薔薇

この日は小学生を乗せ降車時に葉の表情を見透かされ「お互い頑張りましょう」と励まされる。照生からのLINEの返信が2週間も来ない苛立ちが「接客モード」になっても顔に出てしまったと思わせるくだり。ここで照生のマンションは横浜のベッドタウンにある事がしれっと書いてある。「あれ?高円寺付近では?」と思っていた私は思い込みが強すぎる?(笑)このドラマのサイズ感的に葉のタクシーの行き来も考えると「横浜のベッドタウン」は納得し難い。——ともかく葉は照生を待ち伏せ目的で遊歩道公園に向かい、いつものベンチに座るジュンに、なんでそんなに待てるのか?など問いかけ、「待つ人がいることは奇跡です」と断言される。「あの……待っても来ないときは?」と聞く。「たまには迎えに行ってもいいかもしれないですね」との答えを得るがそんなジュン自身は「未来から来る妻」を待っているのだから、実は迎えにさえ行けない辛い悲しみがあります。

「待つ人がいるのは奇跡です」


・ギプス

照生は朝のラジオ体操をやらずに早2週間経っていた。部屋も2週間片付けてない。理由は足のケガですべてが難儀になっていたから。部屋には置きっぱなしの葉の女性もののワンピースや帽子、小さなスノードームや洒落たクッション、柄物の夏掛け、花の咲く観葉植物……等々。「目に触れないところにしまいたい衝動に駆られる」「かつて、殺風景だった照生の部屋を彩り、彼の感性を豊かにしたものたちが、こんなときにはとても邪魔に思えた」とある。——葉への思いはいささかも変わらないが、今は自身のケガが巨大な苦悩として照生にのしかかって他に手がつけられない状況が察せられる。
ちょうど二週間前のレッスン中のケガであり、その日のうちに葉には一旦LINEしたのだろう。葉は返事をしたが以降照生から2週間その返答がない状態なのだ。
それでも足を引きずってレッスンに向かう照生はお地蔵さんを素通りだ。それほどまでに心に余裕がないと書かれている。それでもベンチのジュンには挨拶をする。ダンススタジオは恵比寿とある。電車の乗り継ぎも苦痛でなんとかスタジオに到着する照生。公演が近づいている。そんな差し迫った中でのケガだ。しかも照生はスタジオの中心的存在で公演も彼が中心なのだが、ここで照生は自分がダメなら代わりに推せる人物として泉美が頭に浮かんでいる。しかし彼女は別なスタジオに移ったばかり。自身の不甲斐ない現在の姿を泉美にみせたくない気持ちもあってその意味ではホッとしている。

・カニとクジラ

結局照生はしばらくスタジオを休むことにする。ロッカーの荷物をまとめて玄関に出るとそこにはタクシーを停めた葉が「少し恨みがましい三角形の目をして」待っている。

強引に迎えにいく葉


2週間返信していない照生はぎくりとする。部屋に葉の荷物があり、何度か取りに来たのだが、部屋に入れなかった事が書かれている(合鍵は渡していない)足を残したままドアを閉めようとして「危ない。足」と言われるのは「ナイト・オン・ザ・プラネット」からの引用。
——この車中の会話が最も重要なのだが、ノベライズを買ったのはここをしっかり確認したかったのが理由なのでじっくり行きましょう——
まず葉は今朝公園で待ち伏せした事を打ち明ける。怒られるやましさがある照生は努めて明るく取り繕おうとするが「……なんで連絡返さないの?」 と早速ズバリ葉から問われる。
思わず「あ、ごめんごめん。今日返そうと思ってた」と落語の「時そば」のような軽いヘタな返しをしてしまう。
「痛いよ、そういうの。めちゃくちゃ心配してたんだけど」
「大丈夫、大丈夫!」

「大丈夫じゃないでしょ」ここで葉の運転が少し荒くなる
「ごめん、でも、ちょっと待ってってば」
「待ったでしょ2週間。てか待つってなに?」

——「気持ちの整理がついていないままで迷惑かけるから落ち着いてから連絡したかった」が照生の言い分なら葉は「迷惑かけて欲しい。そして一緒に考えたい」とあるがままに全部教えて欲しい。この時照生は葉からもらったバレッタを着けていたのだが、葉はそれに気づかないし、ダンスに懸けて来た人間の今後どうなるかの動揺と苦しみもあり。照生なりに葉に迷惑をかけたくないとおもんばかる心情——これらの全てがまるで解ってもらえない。それどころか「ずっと自分だよ」と利己主義を責められ「トリキトリキ、またトリキ、休みの日だってトリキ」とまで言われる。ここは笑いを取るためなのだろうか。ちょっと本題と関係ない。照生は確かにトリキばっかり行ってる事には気づき「でもそれは今言うことだろうか」と思い「だったら言ってよ」と返す。「だったら訊いてよ。てかトリキの話はいい」と葉。ここで空気を変えようと(勇気が要るだろうなと思うのだが……)照生は突然「あなた映画スターにならない?」と『ナイト・オン・ザ・プラネット』劇中のコーキーへのスカウト場面のセリフを葉にぶつける。しかし葉はそれをスルーし「私は支えるよ。怪我している間も、治ったあとも。もし踊れなくなっても、普通に働いて一緒に楽しく生きれるし」と返す。
だが、これがいけなかった。「照生の心にぐさりと爪を立てた」とある。他人に「もし踊れなくなっても」を軽々しく口にしてもらいたくない。まさにそこに苦悩し整理がついていないと言っているのに——
だから「……なにそれ」と身を固くする照生
葉は続ける「そのまんまだよ。照生がどんなに変わっても、私の気持ちは変わらないよ。好きなままだよ」と恋愛映画のセリフみたいな事を言い出す。
「……いや変わっても好きなら、今俺のこと好きじゃないんじゃない」
と照生は屁理屈のような卑屈と感じてしまう言葉で絡んでくる。
「なにその女みたいな」と過敏になっている照生をさらに逆なでする葉。
「いやいや別に男女の問題じゃないから」もうとまらない照生
「いまの照生君がほんとに好きだから、どんな照生君でも好きだって言えるんじゃないのかな?知らないけど」さらに恋愛映画のセリフみたいな言葉。ただ、付け足された「知らないけど」に、「葉のかすかな羞恥心を感じて照生はホッとする。」とある。
——そもそも車を運転しながら話すテーマではない。運転に気が向いて相手を慮るところまで気が回らない——
「……想像できるけどね。普通に働いて休日は楽しんで、ときどき料理作ったりなんかして。あ、そういう照生くんも推せる」ここで照生はなおも身体を意識的に葉から離し「……踊ってない俺、知らないじゃん」こうなるともう何を言われても今の照生には響かない。葉は「たとえ照生がどんなになっても支える」と言うくせに、照生はケガを負いながら「ダンスがない自分など考えられない」といったところが現在地。それをいいたいがうまく言葉が出てこない。照生はうまく思いを言葉に出来ないから踊ってきた人間なのだが、葉にはそこがまず解ってもらえない。人間は「自分をわかってくれているようなフリ」をする人間を嫌悪する。わからないならそれはそれで仕方がないが「解ったふり」は許せない。そこへ「どんな照生君もいいけどなあ」とさらに葉は言葉を重ねるが、一見「全面受け容れ」のような寛容な言葉だが雑すぎる。もう顔をそむけて貧乏ゆすりをし始める照生。
「ねぇなに?なにに怒っているかも言わないとわかんないよ」
「はあ?……いや、ごめん、ちょっと意味がわからないわ。なんでそれを言ったかもわからない」
二人の距離感は離れる一方。
「……会話になんねー」葉は冷めた気分になって、ふざけた言い方で放り投げた。
そのとき、照生は気付いていなかった。ウィノナ・ライダーは映画スターよりもタクシー運転手、さらには将来の夢、整備工を選び、そのうち「職業は関係ないわ、愛してくれさえば。……心から、ありのままの私を」と言っていた事を。
照生はウィノナ・ライダーが運転手並びに整備工という確たる道のためには揺らがないという意志を映画から見だし、心の支えにし、葉は「ありのままの私」を愛してくれる人の尊さを映画から読み取っていた。
葉は葉で、せっかく映画のセリフを彼女なりにアレンジして返したにもかかわらず、照生にはまったく響かなかったことが残念でならなかった
(
——なるほど!「ありのままの照生を私は愛す」と伝えたかったのか!)
「ずっと会話になんてなってなかったのかもね。ずっと」
ハンドルをギュッと握り直しながら言った。一度気がついてしまうと、これまでのやりとりのすべてが、ただなんとなく合わせていただけで、お互いの芯には届いていなかったという失望に変わっていく。
まるで葉がふだん、タクシーの客と交わしているような、その場しのぎの、なにも残らない会話。葉は自分が思いを込めて選んだバレッタに気づかず、照生はあれだけ好きだった映画のセリフに気付いていなかった。
「この2週間、私がどんなに不安だったかわかってる?」
照生は黙ったまま窓の外を見た。
返事がないので葉はキレて「……じゃあいい、もう」と膨れ面をした。
「なにが?」
「もういい」
「いやだから俺はさ、いま踊れるか踊れないかの瀬戸際で、ねえ、このままダンスを続けるのか、そうじゃないなにかを見つけるのか、自分でちゃんと決めてから会いに行きたくて」
「そんなの望んでない」照生の声を遮るように怒鳴った。車内に声が響いた
「葉ちゃんのためって言う自分のためでしょ」
照生は返す言葉もない。
「お客さん、到着しました。降りてください」冷めた葉の接客トーク
——話し合いは決裂し、しかも唐突に停めたタクシーの場所は西新宿だった。
「……2240円なんで2500円で」
最寄りの駅かマンションの前まで送ってくれると思ったがはしごを外された気分になった。ここから駅を乗り継いでマンションの下にある階段をのぼって帰らねばならない。
筋違いとは思ったが恨めしく思った。しぶしぶ財布から金を取り出しながら「ねえなんでそんな極端なの」と責めるように訊いた照生に対し葉は答えず
勢いよくシートベルトを外すと助手席側のドアにまわりドアを乱暴に開ける
「降りて」と強引に照生を引っ張り出し足をひきずりながら外に出た。そして「あ、これあげる」と白い紙袋を後部座席から出し強引に押し付けた。中の箱のサイズからケーキと察した照生は「ねぇ一緒に食べようよ。だからごめんって、葉ちゃんちょっとだけさ待って欲しいんだって」去りゆく葉の背に呼びかけたが葉は振り返ることなく車を出して走り去った。
追いかけたくても足が痛くてそれは無理。そんな事も気付いてくれない葉に悲しくなった。
残された照生は周囲の人々の会話につぶさに耳を傾ける。余りに噛み合わない葉との会話に疲れ、他の皆の会話はちゃんと成り立ちお互いがわかりあえているのかを確認したくなったのだった。
——この後日付が変わる前にと照生はケーキを一人で食べた。フォークは2つ入っていた。ケーキについたプレートには「てるおくんファイト」と描いてあった。葉の気持ちが照生の胸を切り裂いた。しばらく呆然としていた。
——と書かれている。照生の足の怪我を照生と葉は深刻さの次元が全く異なっていたという事か。そしてこうある。
「あなた映画スターにならない?」
ホントはこのセリフは照生渾身の、葉に対する呼びかけだった
(やっぱり)軽く何気なく言ったものの、「映画スター」に別の意味を葉に読み取って欲しかった。あの約束、覚えてなかったんだろうな。葉の作った青いケーキは照生に苦く感じた。(——これは約束のプロポーズの言葉だったんですね。「あなた私の花嫁にならない?」って感じの。決して葉が忘れているわけはなかったでしょうけど——)それにしても何度も照生は「待って欲しい」と懇願しているのに、それを捨てて放り出してしまうような葉の短気さはいかにも残念。アーティストってまず自分の事を考える動物ですよ。それは「利己主義」とは違って自身を磨く「求道」こそが同時に「人生」でもありそれは本能とも言える。葉はこの2週間がつらすぎて「振り回される苦しさ」から免れるために半ば強引に自ら決別に踏み切ったのでしょうけど。私も25才で苦しすぎる恋愛に自ら決別をした経験があるので、わからなくはないです。ええ、後悔は全くないです。そうしたほうが良かった。
——日付が変わる前にと、急いでひとりで道端に腰掛けてケーキをかっこむ照生の姿がとても見ていられない私。

周囲の皆はわかりあえているのだろうかと耳を澄ます照生


・花束

「……追いかけて来ないのかよ」
葉はスピードを上げながら、つぶやいた。この声は少し涙声だった。
冷静に考えればあの足では追いかけて来ることは難しい。それでも足をひきずりながら1歩でも2歩でも前進する姿がバックミラーに映ったら、すぐにブレーキをかけるつもりでいた。恵比寿から西新宿へ向かったのは以前ふたりで行ったことのあるレストランで誕生祝いでもと思ったからだった。でも照生に取り付く島がなく、ついカッとなってしまった。あの約束覚えてなかったんだろうな。1年前『ナイト・オン・ザ・プラネット』を観ながら、ケーキを食べながら交わしたあの約束。

——このあと「今日離婚した」とかいう3人の酔客を拾って、車中で煙草を吸いたいとか悶着があった。照生に渡し忘れた花束の紙袋を押し付け合い揶揄された事でブチ切れて怒鳴った葉。しかし取り繕いはナイスでさすがでした。
——それにしても照生は約束のプロポースは忘れていなかった。葉も待っていた。それなのにこんな形で、出会って3年目の誕生日が失意のままで終わるなんて簡単に「運命」というには悲しすぎます。
ちなみに「……追いかけて来ないのかよ」というように相手を試すような行為を私はあまり好きではありません。「邪心」に思えて。もちろん葉はこの2週間で「大切にされてない」と感じた事の反動かなとは思うのですが。

離婚した酔客を乗せ


第5章 2017年 7月26日 火曜日『火曜日』

・バレッタ

葉と付き合い出した照生の部屋には彼女が持ち込んだ様々な衣類や小物が増えていく。誕生日の前日からお泊りの葉。シングルベットが窮屈そう。ベットでのイチャイチャは恋人たちの特権。ここでは枕が2つある。葉の出入り頻度が一気に増した事がわかる。照生の部屋も変化してゆく。日付が変わって起きようとしたが失敗し結局遅く起きてから贈り物のバレッタを照生につけてあげる葉。実は初めて会った際に葉は髪をバレッタで留めるヘアスタイルだった。同じスタイル照生にも取り入れてもらいたいという心情のよう。——アメリカンショートヘアの猫「モンジャ」は今年からふたりで飼おうを決め、買った日に2人でもんじゃ焼きを食べたことからその命名に。観葉植物も葉が持ち込み数が増えた。
誕生日の今日は予定が盛りだくさん。外出時には鉢植えを持ち出しジュンさんにプレゼントした。ふたりはジュンさんに影響を受けている。そしてこの章にはこう書かれている「照生と葉はそんなふうにお互いを待ち続ける関係になれるだろうか。それはまだふたりにはわからなかった」——と。

・ダンス

休館日の水族館

本作でふたりのデートで最も美しく象徴的な水族館のデート。ここは八景島シーパラダイス。(自宅から通いやすいエリアと考えると金沢区辺りが照生の住居なのか)照生が閉店後の深夜清掃アルバイトをしている。だから勝手がわかる。とはいいつつ休館日に勝手に入っていいはずもなく、そんな「出たとこ勝負」な照生の部分や、ダンスだけではなく海洋生物にも詳しいところに葉は新たな魅力を感じているようだ。こういう一文がある。
「のんびりとわりと夢見がちな照生に比べると葉は極めて現実的だった。それでもふたりはその違いを楽しんでいた」——と。
クラゲライトに照らされた葉が「なんかさ、この星に人間は私たちふたりだけって気がしない?」というふたりの絶頂期を象徴する名台詞が登場する。
そしてここでもふたりはダンスに興じます。嬉しいとすぐに踊りだす葉とそれを常に受け止めてくれる照生。いい二人ですよねー

ひとりじめ
なんかさ、この星に人間は私たちふたりだけって気がしない?
警備員の目から逃れて

・裏ルート

無断で休館日に水族館へ入ったスリリングデートのお次は葉のタクシー職権乱用です。ここで葉は『ナイト・オン・ザ・プラネット』のコーキーを気取って車内2人で存分に「ごっこ」に興じます。

タクシーを無断で私用

・イチゴ

屋上での花火

帰路コンビニで花火を買った2人は照生のマンションの屋上で花火大会。こんな記述がある「照生のマンションはあいにく広いベランダがないが、360°街が見渡せる抜けの良い屋上があって、それが引っ越す時の決め手だった」と。
印象的なのは花火が終わり街の灯りを見降ろして「なんか、みんな生きてんだねえ」と葉がしみじみいうところ。いまこの時間、それぞれの生活がそれぞれの場所で営まれている。その横顔に照生が見とれて「なに?」「ううん、葉ちゃんきれいだなって」「は、うっさ」そして並んで街の灯りを眺めながら現実感が襲ってきてのか
「照生君明日も元気でいてね」といい出した
「どうしたの急に」
「明後日も元気でいて。ずっと、ずーっと生きててね」
「葉ちゃんもね」
——ここ自分が一番好きなシーンです。当たり前でいることが最高の幸福に感じ自然に感謝の気持ちが湧いてきたかのような場面です。
階下の照生の部屋に降りケーキを食べながら『ナイト・オン・ザ・プラネット』をふたりで観ます。2人でソファに座り劇中のセリフから拾う形でこんな会話があります。

2人で映画を観る


「人生プランなんてないよこっちは。順調に人生の迂回ばっかしてるわ。私だったら映画スターになっちゃうな、なれないけど」
「そんなことないよ、なれるなれる」
「だって子供がほしいとか……」
葉はぼそりと言いかけ、すぐに言葉をケーキと一緒に飲み込んだ
「ん?」と照生は葉を見つめる。
恥ずかしそうに「なんでもない」とうつむく葉。

ここで葉が照生に映画で吹き替えと字幕のどちらが好きかを訊ねる。
「ん?字幕」
「なんで?」
「だって集中して見れるし、口から出てくる音を直截聞けるし」
照生の話を聞いて葉は「なんで言葉ってこんなにたくさんあんだろ」と言い出した。
「どうゆうこと?」
「だってさ、みんな同じ言葉でしゃべれたらそのまま伝わるのに」
「んー……」と照生は少し考えて
「でも言葉が伝わるからって心が通じるわけではないし、言わなくても伝わることってあるだろうしさ」と持論を述べた。
「言わなきゃ伝わんないよ」と葉はもどかしそうに身体をよじった。
——
翌年の車中での口論を暗示させる会話だと思いませんか?照生はまさに言葉ではなくダンスで「伝える」事を生業なりわいにしている。
葉は言葉に出したものが、逆にださない限り伝わらないと信じている。
この両者の感性と価値観の違いがまさに来年の諍いの原因です。
——ここでケーキのイチゴの美味しさの勢いを借りたわけではないでしょうけど照生は唐突にこう言います。

「来年の誕生日プロポースしよ」


「来年の誕生日プロポースしよ」
「ん?」照生の腕の中で葉がぴくりとした。
「ん?」
「なに?」
「ん?」
「なんか言った?」と2人は顔を見合わせた。
「え、待って。なんか言ったね」と葉はケーキの皿をテーブルに置いて、居住まいを正す
「言ってないよ」と照生は知らん顔。
「言ってたじゃん」
「なんか言った俺?」
「なんて言った?」
「ううん」

——ケーキをおもちゃにしながらイチャイチャしあう。
「ねぇ来年ってさ照生君の?私5月なんだけど」
「来年か明日か」
「えー!」
「明日?」
ふたりはまた同時に言って顔を見合わせた。
「えー!」
「明日?明日たのしみだなー」

——やや、はぐらかしながら続きます。ここで照生は30才の誕生日ケーキのローソクは一本を10年にみたてた3本にしました。どっちが良かったかの話になり「短い30本の方が良かった?」
「うん、葉ちゃんの誕生日はそうしよう」
「やめて。ほんとにやめて」
と葉が自身の30才を想像させる照生の言葉に「おぞましい」とばかりに耳を塞ぐ場面があります。2人の年齢差は3才。
一般的に女性は30才を非常に大きな分岐点と考える傾向がありませんか。
「30才までには結婚して……」が一番よく聞く言葉で。同様に葉も30才を強く意識しおそれ、この恋愛を30才までに決着したい気持ちも感じます。

第6章 2016年 7月26日 月曜日『月曜日』


・向日葵

この時点で「築48年」と書かれた照生のマンションは引っ越しからあまり日が経っておらずまだダンボールが部屋の済に積み上がったまま。
最初に荷物から取り出したのは『ナイト・オン・ザ・プラネット』の額装ポスターであったと書かれている。時間は0時7分。夜8時にLINEでやり取りした葉とのやりとりを見直す照生
「客待ち」
「笑」
「明日何してんのー?」
「レッスンのあとバイトだよー」
「そかそかりょーかい」
照生はそれを受けて
「明日雨降るらしいよ!気をつけて☂」と送ったがそのまま既読マークは付かなかった。

——葉はサプライズ好きなのか、このやりとりでバイトに行く前にスタジオで突撃誕生日プレゼントを企んだのでしょうね。
その日はスタジオに行くが照生は通路で泉美から誕生日プレゼントを渡される。周囲も気を使って写真を取ってくれたり盛り上がる。あくまでもスタジオの先輩・後輩としての分をわきまえたやりとりだった。しかし窓からその成り行きを葉が観ていた。雨が振り始めたがその時照生は窓の先の葉に気付いた。手に持った大きな向日葵をあからさまな大きな手振りで投げ捨てて走り去るところだった。照生は思わず追いかけようかと思ったが練習が始まる時間だった。先生からも声を掛けられ後ろ髪を引かれる思いで練習に入る。
ここで「レッスン中も照生は葉が気になって仕方がない。その気持を払拭するようにいつもより激しく回る——結局その日は葉の事が気になってダンスに集中出来なかった」
とある。
帰り際なおも泉美に誘われるが、バイトがある事を告げて断る。そして気になっている葉に連絡を取ろうとする。断られた泉美に関してこうある。
「泉美は照生の前ではものわかりがよさそうに振る舞っていたが、ひとり取り残されるとたちまち表情が曇った。自分ではない誰かが照生の心の中を占めていることを察知して嫉妬を感じているのだった。そんな泉美の女ごころを照生は理解することはなかった」と。
電話は葉に繋がらなかった。ずぶ濡れになりながら周辺にいるかもしれないと葉を探し歩いた。

・雨

不倫サラリーマンを乗せ、頭に来たので急ブレーキで脅かした葉だった。助手席にはフィナンシェと向日葵一輪が入った紙袋がある。その客は六本木で降りたのでそのまま恵比寿の照生のスタジオに向かった。スタジオの窓から除くと葉の知らない照生のスタジオでの姿を観ることになった。「窓の向こうが遠く見えた」とある。照生が(葉からみると)デレデレしながらスタイルのいい可愛い女の子からプレゼントを受け取り2ショットに応じる姿は「葉には見ていられないものだった」とある。土砂降りになりタクシーを回送のまま走らせ照生のマンション近くの遊歩道入り口に向かった。なんだか虚しくなりフィナンシェを車中で独り食べる。泉美の大きいプレゼントに比べると自分の小さいフィナンシェは見劣りし焦燥感があった。バイトがあると言っていたが本当は泉美と過ごすのではないかとの疑心暗鬼もあった。あの「不倫サラリーマン」の不誠実を少し照生に重ねてしまったのだった。
窓の外ではずぶ濡れになりながら佇むジュンの姿。——ここで初対面になるが妻を待っているとの事で傘を差し出し、自分はずぶ濡れになりながら姿も知らないジュンの妻スズエを探す手伝いをするが、先にスズエは無事ジュンのもとに戻ってきていた。
——これこの後日にここで出てくる妻をジュンは亡くすってことですよね。
それを知っていると少し哀しいくだりです。2人の仲睦まじい姿になぜか葉は思わず「ありがとうございます」と言って頭を下げる。

・ピロピロ笛

夕方になって降り止まない雨に仕事を早めに切り上げ「バーとまり木」に行く葉。ジェンガ(積み木)をしながら酒を飲む。
先に中井戸が「絶賛片思い中」とおどけ、それに葉が首を突っ込む。
「え、いまどうなってんの」
「いいのもう、どうでも。それよりあんたは」
中井戸は葉がいままさに聞かれたくないことに話題を向けた。ここに来て、ひとり飲んでいる理由の根源である
「うーん、いやー、全然……どう思ってるかわかんないし」
葉は体をかすかにねじりながら言った。
「なに、付き合ってんじゃなかったの」
「……いま連絡無視ってる」
「なに、喧嘩?」
「じゃないけど」
「ふーん。じゃあ照生今日こないの?」
「なんかバイトだって」
「あ、そっか火曜」
バーとまり木は照生が常連だった店で、葉はつれてきてもらったのだった。葉は気にしない性分なので、気に入ったからひとりでも来るようになった。現在、照生と葉は友達ではあるが、恋人ではない曖昧な状態だ。葉としては、想いが募り、もやもやしていた。そんな乙女心を持て余す葉をからかうように、中井戸はカウンターに置いてあった吹き戻しのピロピロ笛を吹いた。ピロピロ〰と音がして紙製の蛇腹が伸びる。
「うーん、わからない。連絡はしてるんだけど踏み込んでは来ないし、そういう感じじゃないっつーか……なんかこれ以上仲良くなると、気持ちが持ってかれそうになるんだよ」
中井戸は再び、ピロピロ笛を吹いた。伸びた蛇腹の先端が葉の頬に触れた。
「いてえ」と葉は中井戸を軽く睨んだ。
からかうような顔をしながら中井戸は笛を置いて、酒をひと口飲んだ。
「うーん、返信してみようかなー、誕生日だもんなー、でも誕生日とか気にする性格じゃなさそうだしなー」
「それはあんたが決めることじゃないでしょ」とピシャリと中井戸
そう、誕生日を気にする性格じゃないと葉が思い込みたがっただけである。
ここでフミオが来店し葉はそっと店を後にする。

——いい味出してる中井戸さん。今回の作品で勿体ないのは2人の「中立的で」貴重な立ち位置の中井戸がもっと介在しても良かったのではなかったか。店に2人が来なければ始まらないが、照生が足を怪我してからのデリケートな時期、葉に対し中井戸ならよきアドバイスを授け葉を大人思考に出来たのではないだろうか。それは照生に対してもそうだが。
恐らく葉が康太と結婚してからもこの店には来ている様子がある。もし続編を作るならこの店は欠かせませんね。それにしてもこの店はどこが所在地なのでしょう。高円寺なら遅くなると電車がなくなるからゆっくり出来ない。横浜側だと葉がそんなに来れなさそうで、どっちにしても使い勝手が悪そうですよね。

・水族館

時系列で言えばジュン夫妻と別れたあと。葉は照生のバイト先に向かう。2人の関係が曖昧な中で初めて照生の気持ちもわかる場面です。
突然来た葉に照生は戸惑いながらも嬉しさもあり、思わず逃げて、葉も照生を追いかけ回す場面がある。
気落ちしているようにみえる葉に声をかけると、鼻をすするばかり。濡れた顔を拭ってあげようと思わず作業用の雑巾を顔に当ててしまい「くさい」と言われる。ここからのシーンもよい。
「あ、ごめんごめん。ごめんごめんごめん」
慌てて汚い雑巾を引っ込める照生に、葉は
「……つらい」と漏らした
「うん」照生は傾聴する。
「くやしい」と葉は続ける。
「くやしい」と照生はリフレインした。
「馬鹿」と葉。照生は「馬鹿は俺だ」と応えた。
「どういう感じ?私ら」と葉が顔を上げた。
「えっ……」とその瞳にどきりとなる。しかしこの間に耐えきれず葉が立ち上がる。
「あ、ごめんやっぱ言わなくていい。あーだめだ、あー……」
「いや、心の声出ちゃってるよ」照生は笑った。
「は?うっさ。あんたもうちょい出しなさいよ」と葉がむくれるので、照生は意を決して葉を抱きしめようと腕を回した。慣れない行為にぎくしゃくしていると、葉は、自ら照生の胸元に飛び込んだ。湿った葉の体をおずおずと抱きしめる照生。すると葉は照生の胸の中で泣き出した。
そこに『とまり木』から持ってきた湿ったピロピロ笛を「あ!」と思い出しポケットから出しそれを「誕生日プレンゼント」として軽くふざけ合う。泣きじゃくる葉が愛しくなって照生は「ありがとう」と葉をしっかり抱きしめた。
——「馬鹿は俺だ」てのが私は好きです。

・観覧車


タクシーで送ってもらう葉

水族館の仕事も終わり2人はタクシーに乗る。ロマンチックな気分になりつつある葉は「いまなに考えてる?」と聞くと「プロから見るとさ、運転遅くない?」と照生。「は?そんなこと?」と心外といった表情の葉はピロピロ笛を吹いて照生の顔に当てた。場所はコスモクロック21付近。つまりみなとみらいの周辺だが「ここで大丈夫です」と葉が降りようとする。葉の家とも全然近くない場所に驚く照生。そして降りようとする葉の腕を照生は掴んだ。

不器用な告白

「……すごい仲良くなっちゃったからさ、伝えたら壊れちゃうんじゃないかと思って……」懸命に気持ちを伝えようと言葉を選んだ照生だったが、葉はきょとんとして、それから吹き出した。
「え?」
「……恋愛映画みたい。いまここは、いい音楽が流れてるシーンだよ」
「はあ?」
考えに考えて言った言葉を笑われて照生は眉を八の字にした。
「あ、いいよごめん、続けて」と促されても、もはや恥ずかしくなって言葉がうまく出ない。もじもじと「いや、だからちゃんと伝えたいなあと思って……」と言うだけが精一杯である。そんな照生を葉は「うんうん……ふふ」と笑って見ている。タクシーに乗った照生と立ち上がった葉。文字通り、葉の、上から目線を感じて照生は押し黙った。
「え、なにをどうしたいの?」と葉はリズムを崩され、慌てた
「いや、なんかいいわ、ちょっと変な感じになった」拗ねる照生
「えー」と葉ははしごを外されたような顔で、今度は照生にすがった。
「なんでもない」とタクシーのドアを手動で閉めようとする照生の手を「えー」と押し止める葉。
「なんでもない」
「ええー」
「なんでもない」
「ええー」
押し問答を続けていると
「なんでもないことはないでしょう」と白髪の運転手が見かねたように振り返った。
「ええ?」
「ごめんなさいね。でも、言えるうちに言って置いたほうがいいですよ。メーター止めましたから」

——しかし照生のモチベーションは下がりっぱなし。2人を気遣い車外に出てしまった運転手さん。入れ替わりに再度後部座席に座る葉。車中は二人っきり。照雄は覚悟を決めて語りだした
「帰って欲しくないと思ってて、なんか、そうやって心の声全部出ちゃうところとか、考える前に行動するところとか、自信がないのに強気になるとこ……」うだうだと要領の得ない話を続ける照生。でもその気持ちは葉の心を動かした。むくむくと湧いてくる気持ちは葉の体を動かして、葉はぶつぶつ語る照生にキスをした。その素早い動きに照生は怯む。葉の唇から少しだけ唇を離して、遠回しな告白を続けた。
「ところとか、すぐ笑い出すところとか、すぐ踊りだすところとか、その変な声も大好きだし野原葉って名前も……」
葉はその告白を聞きながら何度も何度も照生の口にキスをした。そのうち照生も葉にキスを返した。

初めてのキス

このままムードが高まると思ったら——
葉はキスを止めて「え、続けてよその話」と澄ました顔で照生を見た。
「え??」照生は話しの腰を折られて脱力した。
「え」
「ええー、だから……」と照生がどうしていいか困ってうつむくと
「うん」と葉はまたキスをした。
ふたりがはじめてのキスを交わしている間、運転手はコスモクロック21のイルミネーションを眺めていた。コスモクロック21が1周するのは約15分。つまりそれぐらいの間生暖かい真夏の風に吹かれていた。

——女性ってこういう場面って自分の感情のまま雰囲気に「身を任せる」事が出来ますよね。相手の髪をかき分けたりキスしたり。それは年齢と恋愛経験とかは関係ない感じで。男性は頭で考えようとするので、なかなかうまくいきません。ここでは照生の「思いの羅列」のような不器用な告白ですが、葉はちゃんとその「想い」を汲み取っていますよね。翌年2人が決裂する時の様子とは違います。まるで同一人格者とは思えない。作者による葉のキャラクター設定が一貫性に欠け、やや破綻を感じた私でした。
それにしても葉はどこへ行こうとこんな場所で降りようとしたのでしょう。単に思いつきだったりするんでしょうか——謎です。

第7章 2015年 7月26日 日曜日『日曜日』

・楽屋

最古の記憶にあたる「2人が出会った場面」です。葉の親友さつきは劇団か「ラブリーブルー」のメンバー。葉も以前お芝居の経験者であったようなのでその界隈で知り合ったのかもしれません。もしかすると「ラブリーブルー」の元メンバーだったとか。合コンにまで誘う間柄なので、双方あけすけに何でも話せる「親友」なのでしょう。しかしならば照生とうまくいかなくなるあたりで恋愛相談などしたりしなかったのでしょうか?中井戸マスターの件もそうですが、人間模様をもう少しきめ細かく丁寧に抑えてほしかったですねー僭越ながら。そうしたら2人の関係はもっと続いたのやも(笑)
演劇はダンスも組み込まれてミュージカル仕立ての内容。正直斬新ながら微妙なお芝居です。
公演初日の乾杯。最近こういったスタイルさえ控えるようになってしまって残念です、ここではまだコロナ前ですね。観客側で参加すると確かにアウェイ感ありますし演者を前に気楽に何でも言える雰囲気ではありません。褒めるしかない感じで。さつきとのやりとりをみていて「もっと何かいいたそうだな」と感じた照生が葉に声を掛ける
「言い返さないんですか?」ふいに声がした
「え?」と見ると、黒髪を後ろに束ねた、白いTシャツの男が立っていた。
「いやいや色々言いたそうな顔してたから」と缶ビール片手ににやりとしている。どうやら、先ほどのさつきのやりとりを見ていたようだ。
「いや、まあて初日にごちゃごちゃ言うのも」と困った顔をする葉に男は、
「あ、いま言ってみていいですよ。あの、さつきだと思って」と言う。誰かに言いたかったので促さるまま今日の舞台で感じたことを話した。
「いや……えー、じゃあ、……良かった、さつきは。でも舞台自体は、ちょっと微妙というか、正直失敗してるんじゃないかなーって……」
一度語りだすと止まらなくなって一気に吐き出した。
「踊りを組み込むのはいいけど、あのダンサー、内容に絡んで来るわりには、上手く機能してないし、踊りもきれいすぎて話に合ってないっていうか」最初はにこにこして聞いていた男の顔が次第にバツが悪そうになっていくことに葉は気付いていなかったが。が、男が
「てあれ、俺の振り付け」と言うので、葉は青ざめた。
「あ、振付師さん……?」
「踊ってもいた」とぼそりと男は言った。
「あっ⁉」
「はい」男は濃い眉を八の字にして笑った。
観劇あるある。舞台を降りたところでは、ついさっきまでそこに出ていたんだと気付かないことがある。それはあまりにも役になりきっている場合もあれば、ただ印象に残らなかっただけの場合もある。
この男性の場合、バックダンサーだから後者のタイプだとは思うが、男と葉の空気はみるみる気まずくなってゆく。目の前のこの穏やかそうな人物にどうやってフォローを入れようかと葉が考えを猛スピードで巡らそうとしたその瞬間、ロビーの電気が消え真っ暗になった。
——ここで照生のサプライズ誕生パーティになり、葉は助かりました。
やはり葉が特別なのではなく、なんでも言えるように仕向けた照生の人柄なのでしょうね。親友のさつきは主役でもあり、ここでは引っ張りだこです。気まずい空気に耐えかねてバルコニーに出たはいいが、オートロックで締め出されてバッグだけ置き忘れた葉。

・商店街


——ここの記述は出会った2人、特に照生の視点が繊細でいいなと思います。
自身のホームグラウンドであるダンスステージならともかく、今日の演劇公演は不慣れな面がある——それなのに思いがけず誕生日を祝われてあの場はそんな照生が主役になってしまった事に居心地が悪かった。照生にとってこの劇場の憩いの場はバルコニー。
反省ばかりが湧いてきてバルコニーに出てみた。そこで見たものはスカートのままフェンスをよじ登ろうとしている葉の姿。暗闇ではあったがその顔には見覚えがあった。つい先ほど、照生の振り付けが良くないと、知らないとはいえ痛烈なダメ押しをした人物である。
「なにやってるんすか。閉館ですけど」と照生が訊くとその厳しい鑑賞眼の持ち主は先ほどの鋭さとはまるで違う頼りなげな表情で「あ、ちょっと……ボルダリング?」ととぼけた事を言って無理やり笑っていた。
やや不格好な姿勢でフェンスを降りた女性を連れて、照生は楽屋口まで案内し、そこで待つようにいうと、彼女がロビーに置き忘れたバッグを取りに戻った。
「……あの、色々すいませんでした」と小柄な批評家は身をさらに小さくして言った。
「……いえいえ、全然大丈夫ですよ」と照生はバッグを渡した。すると彼女は「舌打ち……」と上目遣いで照生を見た。
「え?してませんけど」
やぶからぼうになにを言うのだこの人はと照生は怯んだ。
「いや、なんか目が舌打ちしてますよ……」となおも言うので「いや」と否定しながら、照生はつい「チッ」と口の中で音をさせた。
すかさず彼女は「完全に舌打ちしました」と指摘する。これはもう言いがかりではないかと照生はなおも「してません」と言いながら今度はあえて「チッ」と大きな音を出した。文字で書いたように明瞭な「チッ」だったため、彼女は「それはもう舌打ちって呼んでもいいかもしれません」と笑い出した。「しましたっけ?舌打ち」
「はい、何回か」
照生が黙ると、彼女は「くせですか?」と訊いた。照生は「全然」と否定したが、内心、もしかして知らず知らずのうちに舌打ちしがちだったのではないかと思ってそわそわしてきた。
「あ、癖じゃない……」と彼女にからかうように言われ、照生はやり場のない感情を持て余し、その場で地団駄を踏んだ。
「おぉーびっくり。そういうのもあるんですね」と彼女は目を丸くした。
閉じ込められた彼女を助けてあげた上、バッグもとってきたというのに、言いたい放題では照生も我慢できない。精一杯の返しは
「ビール奢ってください」だった。
「え?」あまりに唐突なことに彼女は目を丸くした。
「ビール」照生はぶすっとした顔で言った。
「ビール。あ、もちろんですもちろんです」
「いいですか?」
「はい、もちろんです」
「そしたら舌打ちが止まるかもしれない」
どういうわけか、彼女と話していると不快な気分を冗談に転化することができた。
「しゃっくり的な?」とさらに彼女はふざけ続ける。
「そうそうそう」照生もだんだん愉快になってきた。
「そういうことだったんですね」と彼女が笑い、照生もいつのまにか笑っていた。
——ビールを買いに劇場から商店街側に向かいコンビニでビールを2本買い、そのまま2人で駅までビールを飲みながら歩いた。
「初日なのに自信なくしました」と照生がこぼした。
「マジですいません。しかも誕生日だったんですよね」
「でも本音ですよね?」
「……はい」
正直すぎて照生は笑うしかない。本当は少し、自分でも感じていたことだったから
「言われた通りだと思いました」と認めた。
ところが彼女は「なんでしたっけ?」ときょとんとした。
「え?いやいや、踊りがきれい過ぎるって。なんかこう演劇の内容に合わせて振り付けたりするのがはじめてだったんですよ。だからあんまり自信なくて」
演劇をやってる人たちの中で、ひとりダンス畑の照生はアウェーな感じが拭えなかった。率直に意見を言ってくれる人もおらず、正直迷ったまま初日を迎えていた。彼女の感想は照生が薄々感じていたことで、もっと早く、客観的な意見を訊くことが出来たらもっとやれることがあったかもしれないと素直に感じていた。
さすがに初日が終わった瞬間の厳しいダメ出しはきつかったが時間が経過するにつれて、冷静に受け止めることができるようになっていた。
おなじようなことを彼女も考えていたようである。
「いえいえ。私も、偉そうに批評するくせに面白くないってよく言われていました」さっきと違って言い方が奥ゆかしい。
「かじってたんです。昔ですけど」と遠慮がちに言った。
「そうだったんですか。今はやってないんですか?」
照生のといに彼女は答えなかった。別人のようにシリアスな横顔を見て、照生はそれ以上踏み込んでいけないと感じた。
——舌打ちからの2人の会話が好きな方は多いのではないでしょうか。結構ひやひやもので、照生を直感的に「イケる人」と思い冗談をぶつける葉もいいし、そんな本来無礼な数々をビールで許す照生も好きです。自身が演劇経験者だと打ち明けたあとのシリアスな表情、気になりますね。その時代の葉の記憶にはお芝居に関わっていた事や当時の恋愛など一言二言では語れない想いが詰まっていたからかもしれません。それ以降の葉の恋愛を臆病なものに変えてしまったぐらいな。
——ここで軽く酔いもまわりキャスケットを被った路上ミュージシャンを見つけると付近で「死亡ゲーム」をやり始めます。ここで照生の心が動く描写があります。
飛び跳ねたことで酔が回ったのか、彼女は陽気になった。思ったことを言葉にして表情にも出して、笑って飛び跳ねる茶髪のセミロングの彼女に惹かれた照生はおずおずと「あの、僕。佐伯照生っていいます」と自己紹介した。
すると「はぁ」と彼女は訝しげな顔をした。
「え、お名前は……?」
「いや、教えません」
「え?」

2人で踊る初めてのダンス


「別にもう会うこともないだろうし」
別に名前ぐらいと困惑している照生の耳に小さな歌声が聞こえてきた。さきほど通りがかった弾き語りのミュージシャンだ。ミディアムテンポのバラード調の曲が心地よい。彼女はその音楽に合わせて、踊り始めた。薄いブルーのワンピースの裾がさざなみのように蠢いた。最初はフリースタイルだったが、次第に見覚えのある振りになってきた。さっきの公演で照生が振り付け、自ら踊っていたものを、彼女はコピーしていたのだ。芝居をかじっていただけあって勘がよいのだなと照生は思った。
「あ、ちゃんと見てるじゃないですか」と照生がいうと
「あ、」と彼女ははにかんだ。立場が逆転し、今度は照生がダンスをチェックする。
「そうそうそうそう」と照生は彼女を乗せる。
「どう?」と彼女が訊くので「上手です」と褒めると
「嘘つけ」とかすれた声で言った。媚びていないこの低い声がいいなと感じていた。

——この次に商店街で明るい照明の下に立ち照生に「踊って」とせがみ2人で照生がリードしながら踊る。そして彼女の名前が野原葉だと知るのは、汗ばむほど踊ってからだった——とあります。ここで確認しみますと、細かな会話のやりとりがありお互いの心情が微妙に変化してゆくのがわかります。
せっかく自己紹介してくれた照生に対してそっけないどころか名乗りを拒否する葉の対応。2年後「やどり木」で中井戸に語る話から察するこのまま照生に惹かれてしまいそうな自分に本能的に「怖い」と感じたのかもしれません。本気の恋には勇気が必要です。葉は過去の恋愛経験から反射的にそんな態度になってしまったのかも。この商店街のシーンもまた無人の水族館のように永遠に続いて欲しいような美しい場面です。
そしてこの章は最後にこうあります。
スポットの中、照生と葉が踊る。
星明かり照明の下、ふたりの距離が近づく。

第8章 2021年 7月26日 月曜日『月曜日』

・7月26日

衝動を抑えきれずに久しぶりにダンスをした照生。しかしやはり体には無理を感じた。
だが、ひとしきり踊ると、傷めた右足は激しいダンスに未だ耐える事は困難だった。それだけ怪我は深かった。次第に痛みが走り、動きが鈍り、照生はゆっくりと踊りを止めた。久しぶりに舞台の上で踊った懐かしさと喜びと、でも脳内の感覚に体がついていかないもどかしさと、肉体の疲れが入り交じる。
——ここで客席側からキャスケットのミュージシャンが出口に迷い、声をかけてきた。彼は6年前は路上のミュージシャンで、やがてMV制作もするアーティストになり、いまやコロナ禍で中止になったとはいえ全国ツアーをするまで成功を収めている軌跡も劇中で描写している。
——さて、問題はこのあと照生を葉の交錯シーンだが、2020年からジャパンタクシーでは五輪仕様の限定車で藍紺の車種に切り替えられている。照生と葉が親しんだ緑のクラウンコンフォートではない。つまり車のナンバーを見たところで葉が運転手かは照生には区別がつかない。——こう書かれている。
にもかかわらず照生にはなぜか予感めいたものを覚えた。
そこに茶髪でセミロングの小柄な女性運転手の姿を求めて、照生は運転席に目をやった。だが運転手の姿はちょうど陰になっていてよく見えなかった。
照生の念が伝わったのかミュージシャンが一瞬振り返った。
「あれ?どこかで会ったことがあります?」ミュージシャンは照生に尋ねた。「……え?」
「なんかそんな気がして」
ライブがあった日、ライブハウスの2階で、照生が彼にどこかで会ったことあります?そう訊いたとき「ないですね」とそっけなく返した人の意外な言葉を照生は噛みしめた。
「……はい。何度か」と小さく頷いた。
ミュージシャンはそれ以上何も言わず、もう一度会釈してタクシーに向かった。後部座席のドアが開くと振り返ることなく乗り込んだ。
「出しますね」そう運転手が言った声が照生には聞こえたような気がした。少しかすれた個性的な声。
一瞬の間のあと、タクシーは走り出した。見えなくなるまで照生はしばらくそこに立っていた。
夜の芸術会館通りは、車通りも人通りも少ない。
もうすぐ2021年7月26日が終わる。34歳の誕生日の夜が終わる。
怪我をして、夢やぶれて、立ち止まった時間をねぎらうように照生は右足を少しさすった。
——映画ではたしかバックミラーに映る照生を確認するかしないかから、メッセージが来るかとスマホを凝視する葉の姿があった気がします。
ミュージシャンの様子の変化は気になります。スタジオで会った際はイケイケで傲慢だったのかもしれません。今はコロナ禍で周囲をおもんばれるような優しい心境だったからかもしれません。
映画の鑑賞者はここで「照生いけー!葉も車から降りて照生の胸に飛び込めー!」って気持ちではなかったでしょうか(笑)
でも私はこう思います。2018年の口論以降、葉は康太との交際がはじまり、照生はわかりませんが、双方の状況は「とまり木」の中井戸を介してそれぞれ両者に伝わっていたのではないでしょうか。葉が結婚したことも、出産して職場復帰したようなところまで。もしそうでなかったとしてもあの車中で徹底してお互いがあそこまでわかり合えないことを確認してこりごりした面があったと思えば、照生もこの描写止まりだったのは自然な事に思えて来ました。

踊る照生に見果てぬ自身の姿を重ねて…



7月27日

——この章では誕生日の翌日(葉とニアミスした夜)に「とまり木」に照生が寄った場面。
カウンターに座った照生は、いつもの濃いめの緑茶割りではなく、中井戸が気を利かせてだしてくれた誕生祝いの朝焼け色したロゼ・シャンパンを飲みながら、さっきの出来事を反芻していた。中井戸が「ねえ、なに考えてんの?」と声をかけた。

「ん?ちょっと」

今日の出来事を「ちょっと」振り返る照生

それ以降はシュンがキッチンから持ってきたケーキのスポンジに中井戸が、思いを寄せているあっきー(男性)がバタバタしながらデコレーション作業をしている。がこう書かれてある。
ふたりのやりとりには、付き合いはじめたばかりの熱っぽい甘さがあった。何もかも正反対にもかかわらず、その違いが無性に楽しい。違いを埋めていくごとに近づいていく感覚。相手が好きだから相手のなにもかもが愛おしい。なんだって許せる。そんな時間が永遠に続いたらいいのに。そう感じながら照生が眺めていると、中井戸が「……どう?」と耳元で尋ねた
「うん。いいと思う。でもさ、ストライクゾーン広くない?」
「そうかな」
「そうかなじゃない」と照生は小さく笑った。
——この後は手作りケーキによる照生攻撃のドタバタがある。ここで中井戸とあっきーの関係に照生は、出会って盛り上がるまでの自分と葉とを重ねてみているような描写がある。が、「それだけだっけ?」と私は思う。2人の間には次第に創り上げていたような「何か」を感じたのは私だけだろうか。
最後にこんな記述がある。
中井戸とシュンと照生はひとしきり飲んで騒いだ。始発までいると中井戸とシュンに悪い気がして、照生はタクシーに乗って帰ることにした。贅沢出来る状況ではないが、そのうち給付金が振り込まれるだろう。
手を上げて止まったタクシーは濃紺のジャパンタクシーだった。運転手はこの仕事をはじめたばかりで道に慣れていないという中年男性だった。家までの細かい説明が面倒だったので、駅前でタクシーから降りて、築53年のマンションまで歩いて帰ることにした。
まだ夜明け前、薄暗い道を進む。
ベンチの前を通って。
お地蔵様の前を通って。
いつもの階段を登って。
部屋に入ると、中ではうっすら明るくなっていた。海底を思わせる、掃き出し窓のブルーのカーテンを開けると、その先に朝日が静かに昇って来た。
パタン。フィリップ時計が動いた。
TUE 27 JUL 4 45
ふとした拍子に少しはねた毛先に手をやって、また髪、伸ばそうかなと照生は思った。

——いつもと変わりない帰路を通って敢えて「変わったものは何か」も考えさせる気がします。ここは映画にはない描写も加わっていますね。葉のラストに比べるなら照生にも「ベットには泉美が寝息を立てていた」ぐらいあってもいいように思えますが、え?要らない?そうですね要らないですね。男は孤独に潔く終わるべきですね(笑)

夜明け

——こちらは葉サイドの「あれから」である。
しばらくたつとミュージシャンが戻って来た。「出しますね」と葉は言って、一瞬間を置くとタクシーを走らせた。少しだけ背後を気にしながら。でも葉はバックミラーで劇場の前に立っている人物を確認することはしなかった。劇場の中で踊っている彼のその姿だけで十分だった。
ミュージシャンを待ってる間、葉は懐かしい人を目撃した。以前付き合っていた佐伯照生である。ちょうど彼の誕生日を思い出していたその日に、当人に会うとは。なんて偶然なのだろう。ダンスができなくなって落胆していた彼が、また踊っていたことが葉は嬉しかった。当時ほど髪は長くなく、中途半端に伸びて毛先がはねていたことを思って少し笑った。葉はミュージシャンを降ろし、今日はこれで終業することにした。ひとりになって、スマホの時計をみると7月27日0時7分から8分に変わったところだった。
ちょうど信号が青になった。見れば、その先も、ずっと青になっている。当たりの感覚。葉は嬉しくて、アクセルを強く踏み込んだ。


——夜明け前に自宅に戻り葉はベランダに出た。
手すりにもたれ、空を仰ぐ。この部屋はベランダからの眺め良くて決めた。
空はじょじょに明けはじめていた。ひと晩中、灯りの点いたままの建物もあれば、じょじょに電気が点く建物もある。まだ眠っている建物も。「みんな生きてんだねえ」とは、いつか照生のマンションの屋上で花火をしたあとに葉が漏らした言葉だ。
夏の朝、日の出は早い。4時45分。日が出る前の夏の朝は、朝露の湿り気があって気持ちよかった。
そっと掃出し窓が開き、「おかえり」と声がした。
「あ、ごめん起こした?」
「大丈夫」
夫の康太の腕の中には赤ん坊が眠っている。
「今日は全然ダメだったよー」
葉は康太の太い腕の中ですやすや寝ている0歳児に囁いた。
葉は産後すぐに職場復帰していた。康太はこんな時期に無理して働かなくてもと心配したが、この康太の仕事がこのご時世でなくなってしまったため、葉はやれることをやろうと考えた。この子のために少しでも働きたかった。
「ケーキどしたんアレ?」と康太が訊く。
「ああ、なんかちょっとて食べたくなって」
ミュージシャンを降ろしてから葉はコンビニに立ち寄ってケーキを買った。無性に食べたくなったのだ。イチゴのショートケーキとチョコレートとふたつ買った。
「ふーん。いま食べる?お茶淹れよか」と康太はいつもやさしい。今は休職中だが出会った日に言っていた通り「一生幸せにするんで」の言葉を守ってくれようと、育児に励んでいる。
「いやいいよ今日はもう。明日食べよう」と葉は康太に微笑んだ。
「いま食べたかったんちゃうの?」
「ちゃうねん。明日ね。明日がいい」
「おっけー。じゃあおやすみ」と康太は0歳児を抱えて寝室に戻った。
「おやすみ」
葉は視線を空に戻した。
朝はとびきり薔薇色だった。
——私も含めた「葉と照生応援団」の諸君にはショックなシーンですね。ここで葉と照生の2人が朝日を眺めたのが奇しくも同じ4時45分でした。眺望のいいベランダで選んだ部屋も照生のマンションで「いいな」と思ったのでしょう。花火の日の記憶も少し出てきます。ここで今日はどこかの段階で「今日は照生の誕生日だったな」と思い出した事がわかります。それが頭の隅にあったので、自然にトイレの場を『座・高円寺』にしてしまったのかもしれません。おそらく『座・高円寺』を後にしながら自宅に着きそこからずーっと「あの頃」を振り返ったままベランダまで辿りついたのでしょう。そんな「ちょっと思い出した記憶」は康太の登場で閉じられます。ここで子供に名前もなく「0歳児」表現なのも気になります。「照生」の一文字でも採用してたら余りにも辛いですけどね(笑)彼女が付き合う相手の影響を受けやすいのは「ちゃうねん」と康太の関西弁が移っている事からわかります。女性は子供を生むと肚が決まりますから、もう心が揺れる事もないのでしょう。「0歳児」なので、「授かり婚」でもない限り、昨年の秋前には結婚していた逆算になりますね。でもコロナ禍ですから式も挙げずに籍を入れて暮らし始めたのかもしれません。
2人が最後に会った日、照生は日付が変わるまでにケーキを食べてしまおうとしていました。ここでは当日食べてしまうと「照生のバースデー・ケーキ」の意味合いになるから康太の行為にも「ちゃうねん。明日ね。明日がいい」と断り、あくまで明日を指定するところにむしろ何か「残心」を感じてしまいます。「夜明けの空」を翌日の新しい一日と我々に印象づけてこの場面は終わります。


From Yokohama 2015

この場面に皆さんは当惑したかもしれませんが、メインストーリーに対し一般的な社会の変化の横軸を入れるために必要だったのだと思います。この映画、コロナ禍もそうですが、実は政治批判の背景もあるのです。
翌年から照生が越してくる前の住人夫婦を追います。郊外の高台にある築47年の古い3階建てのマンション角部屋301号室。遅刻気味に起きた作業着の男性が妻に急き立てられて出勤します。それでも玄関でハグはします。遊歩道公園を横切るとジュンとスズエ夫婦がベンチで仲良さそうに座っています。赤い薔薇をジュンはスズエにプレゼントしています。
ふたりの出会いの場であるここで、結婚記念日には愛を確認している。その姿を作業着の男は横目に駅を急ぐ。
自分も妻に花を買って帰ろうと思ったかは定かではない。
——オリンピックに関し建設業界に影響はあるような政治の記述がある。
つい先日のニュースで、日本中がざわついていた。建設業界で働いている男も少なからず、今後のことが気になっていた。
301号室の夫婦は熱烈な恋愛の末結婚したが、わけあって引っ越し後3年して、結婚生活を白紙に戻す。夫のほうはかなり未練があったが、妻はあっさり去っていった。離婚届に判を押したその晩、男は泥酔して、仲間に慰められながら、クラウンコンフォートの緑のタクシーに乗って、煙草を吸いたいとひと悶着起こすことになる。そのときのタクシー運転手が、301号の次なる住人の恋人であったとは、誰ひとり知らない話である。
——

ここにも明日から前に進む男が

最後のエピソードは様々な市井の方々の交錯を入れるあたりそれこそ『ナイト・オン・ザ・プラネット』へのオマージュを感じます。
しかし葉は康太と今後『ナイト・オン・ザ・プラネット』を観る事があるんでしょうか。少し気になります。
——以上です。今回はあくまでノベライズの抜粋ですので、きっちり読みたい方は『ノベライズ ちょっと思い出しただけ』を是非お求めください!

2人が歩んだ日々


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?