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【ネタバレ映画批評】『ちょっと思い出しただけ』①

※本記事では映画内容全てに言及するためネタバレに関し遠慮がありませんのでご注意ください。

六年間の恋愛の行方を離別状態から出会いまで遡る形で追う作品。
類型作品としては
『花束みたいな恋をした』
『ボクたちはみんな大人になれなかった』

まずこのあたりが好きな御仁にはおすすめしたい。

面白いのは主人公の1人でダンサーの佐伯照生(池松壮亮)の誕生日を定点として遡る点だ。両者恋愛の現状が出やすい日が選ばれている。
——自己表現を生業とするため上京しそんな背景で幾度か恋愛を経験する——そう書いてしまえば元も子もなく、ある意味この東京ではよくある情景なのかもしれない。
そのせいか、監督松居大悟、俳優池松壮亮、ミュージシャン尾崎世界観の10年以上前からプライベートでも強い付き合いの合った3人の『絆』の方が意義深いような前評判だったにも関わらず、あまりにもさりげないタイトルにも関わらず現在好評を博している。
——それはつまり皆が自身をかえりみる、強い共感を持ちやすい作品と言うことなのだろう。もし直接体験がなくとも自己表現を生業にすべく努力をする男性を支える「尽くす女」に憧れる女性は多い。今回のもうひとりの主人公野原葉(伊藤沙莉)もまさにそんな女性だ。ならばそこに自己を重ねる事で体験的に観る事も出来るだろう。

それでは作品を映画の時系列に沿ってまずは振り返ってゆきたい。

——冒頭は当然「現在」で、二人が完全に別れた状態からのスタート。
この年の誕生日に照生は深夜ひとりぽつねんと部屋で映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」を鑑賞している。酒を呑みながらだったようで朝はソファから床にずり落ちた状態で寝てしまってそこで起きた。部屋は造りから築40年は経ってそうで、高円寺なら8万程度で「古いけど広くていいよ。ベランダからいい眺めだし」と人に説明する部屋。家財と水族館の夜間清掃の仕事からすると収入は手取り月20万円程度と推測する。 2019年以降ダンサーを辞め、「座・高円寺」での照明アシスタントの仕事は恐らく正社員ではないかと思うので収入は額面で月収30万程度と推測。

——職場に行き牧田から昨夜誕生日だった事を尋ねられる。
出勤し当日予定のステージが終わり、後片付けをする照生。片付け終わりガランとした客席を見回し不意に踊りたい衝動にかられ、素足になりただ一人ステージで舞う。するとそこには乗客のトイレを借りるために寄った葉が興味本位でステージ近くまで立ち入っていた。そこで誰あろう照生が一人で一心不乱にダンスをしていた。あまりの偶然に陶然と佇み照生を凝視する葉。
——葉はタクシー運転手。ノベライズ版によると照生の3才下。経緯は不明ながら劇中で乗せたミュージシャンから若さを口にされると「結構長いんですよ」と返すが、この時点は2021年なので葉30才という事になる。2種免許取得は普通免許取得から3年が条件なので、最短で21歳からスタート可能。そう考えると葉の社会人経験はほぼタクシー運転手だけになる。キャリア9年なので確かに「結構長い」のだ。収入は無理しなければ相場で月収手取り20万を少し超えるぐらい。無理をすれば30万に近づくことは容易でしょう。
——5年目。この年は年頭からコロナ禍に見舞われ照生は誕生日なのに在宅勤務、葉は車内に飛沫シールドを施す作業を映すだけと、交錯する場面がなく。2人が「終わってしまっている」事を伺わせる。この1年をどう過ごしていたのか。葉に関しては憶測可能な要素は後で出てくる。

——まず物語の構造として、ダンサーという職業からやがて夢が潰えて裏方に回る男性と、それこそ記憶に残る素敵で楽しい出会いをし、1年間をかけてゆっくり近づいてゆく二人を描く。なにせ1年経っても二人馴染みのバー『とまり木』のマスター中井戸に「付き合ってんだろ?」と問われても即答できない。それどころか「これ以上距離が近づくと持ってかれそうで怖い」と返してしまう。
照生は照生で自分の気持を葉に伝えるのがヘタで、男性にありがちな、悩み事を自分なりに方向づけした上で彼女に伝えようとするが、葉はありのままに、悩みならそのまま愚痴でもいいから相談して欲しがる女性だ。気軽にやり取りすべきLINEの返信にさえ「思考」が挟まり、いちいち滞る照夫に苛立ちとともに「待たされている」ストレスが募る。葉の感覚では現状「二人は恋人同士未満」であるかのようだ。
それだからイチャイチャする場面が多い割に「伝えなければならない」自身の気持ちを言うべき肝心な場面で、お互い照れからか茶化してしまい話題がそれてしまう。結果的に葉にはそれが次第に満たされない思いへとつながってゆく。

映画館で配布されていたポストカード

——恐らく照生は葉をかけがえのない存在として間違いなく愛しているが、葉側は常に肩透かしを喰って曖昧にされている感覚。葉は常にストレートな表現を好む。でなければ気持ちが安定しない。多くの女性が重んじがちな「察する」感覚は希薄だ。気性はごく一般的なカップルと真逆と言えるかもしれない。
——喪くした妻を公園で待ち続ける男ジュンに言われた「待っても来ない時には、たまには迎えに行ってもいいでしょう」との言葉通り、足の怪我をおもんばかり、思い切って葉は照生の自宅まで車で迎えに行く。
出会って3年目。揃ってタクシーに乗る二人は本作の中で、唯一と言って良いほど「言い合い」をするが、ここでは「そもそも二人はハナから合ってなかったのではないか」と思わせる場面になっている。この頃、足の怪我で今後の行く末を真剣に一人で抱え悩んでる照夫を葉は「全部“自分”だ」とその利己主義傾向を責めるが、葉も実は照夫の心中や人間性を心底知ろうとしておらず相手を責める割に自身も「利己的」に苛立っている事には気づかない。葉は自分の「型」に相手が合わせて欲しいタイプに思える。やはりこれは男性に多い傾向の性格だ。お互いが相手を心底わかろうとしなければ、二人の距離は永久に近づかない。葉は照生を迎えに行くだけではなく「今日はハッキリしたい」と考えていたのかもしれない。車を降ろす時のこれまでに観られなかった冷たい態度はそう感じさせる。ここで照生は葉からフラレてしまったのだ。
この年には友人の誘いでコンパに参戦する。これで照生との関係が終わっている様子が伺える。コンパの合間にLINE交換をした行きずりの男性康太と一夜をともにしてしまう。
「照生の方がいいのになぜ!?」と観ている側はうろたえてしまうが、それでも泊まってし目覚めた葉はどこか「やべえ、やっちまった」と後悔の色を引きずっているようにみえる。
——ベッドからの康太の冗談も照生とは質の違うベタ基調で笑えもしない。
結局この康太と結婚してしまうが。きっと彼は要領のいい葉とのLINE交換のお手並みからすると、LINEのやり取りもマメで葉の意に沿う「安心できる相手」だったのだろう。劇中そっけなかった「4年目と5年目」の描写は康太と葉が深まる季節だったのだろう。
——出会って2年目の誕生日には照生のアルバイト先の水族館の休館日に忍び込んで「貸し切り気分」を満喫する。そして部屋で映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」を観ながらイチャイチャしながらケーキを食べる。この時に照生は「来年の誕生日にプロポーズしよう」とさり気なく独り言のように口走る。もう一度言わせようと迫る葉だがうまくはぐらかされてしまう。結局こんな事を言ってしまったので、翌年に葉は過大に期待を膨らませたのだろう。しかし(おそらく)照生は一年前の言葉を完全に忘れている。しかし絶対に女性はこの手の言葉は忘れない。葉の切なさ辛さを感じてしまう。
最初に迎える土砂降りの日の誕生日(私が一番好きな場面)水族館に来た葉を送るため2人で乗ったタクシーで葉が先に降りるタイミングでやっと照生は不器用な告白を試みるが、運転手の気遣いにも関わらず、いつもの様に葉は茶々を入れてしまいせっかく勇気を奮い起こした照生の意を殺いでしまう。
結局。決着がつくと期待した3年目が散々だった事は葉の中に一定の決意を生じさせてしまったのかもしれない。
——出会った最初の年、ここで後に照生が住むはずのマンションの「前の住人夫婦」の姿をわざわざ追う。子供も生まれて手狭になっての引っ越しだったのかもしれない。この意味は容赦なく流れる時間と「生々流転」の自然の「ことわり」を刹那的に暗示させている。二人の関係が終わり新たに前に進む事がそのように自然の摂理だというように。

——そして物語の本当の最初。出演者である親友さつきに誘われて来た演劇の、講演初日にも関わらず感じたままを無遠慮にダンスの演出・演者当人である照生に辛辣な感想を述べる葉。しかしだからこそそんな実直な葉は照生の心に残る人に映ったのだろう。そして忘れてしまったバッグのおかげで思いがけず照生と帰路に着くことに。その道すがら路上での即興の他愛のないゲームやダンスにノッてくれるお互いはこの時が一番幸福だったように思えて仕方がない。
恋愛は相手の事がよくわからないぐらいが一番楽しいのかもしれない。思い過ごしや勘違いがそういう作用を果たすのだろうか。

——ドラマは6年目の現在に戻り、偶然入り込んだ劇場で、諦めた筈のダンスを誰もいないステージで一人踊る照生の姿を見つめながら、いつしか抱き合いながら共に美しく踊る姿を投影する葉の姿がそこにはあった。
そんな「奇跡の刻とき」は出口に迷ったミュージシャンの声で終わってしまう。出口から歩く彼の背の先には待たせたタクシー。2年前であれば「ドライバーは葉かもしれない」と考える筈の照生の表情をカメラは意味深げに捉える。車中では建物側にシルエットを映す照生を意識しながら「万が一の奇跡」を待つようにスマホ画面を凝視する葉。しかしそこにはなんら通知は来ない。ここで2人が「完全に終わった」事を暗示させる。
自宅に戻りベランダで心地よい風に吹かれながら、今日の出来事を思い出し遠い記憶に思いを馳せている葉に、夫となった康太が子供を抱きながら声を掛けてくる。「あの頃の二人の記憶」と「自分が照生と踊る見果てぬ姿」はその彼女の選択という現実の前に「ちょっと思い出しただけ」の記憶として閉じられた。だから照生の誕生日に買ったケーキは日付が変わってから「ただのケーキ」として食べなければならない。「私はこの途を選んだ」と自分に云い聞かせるように。
一方照生は今日の出来事を振り返ったのか、そこに葉の姿を観たのか感じたのは解らぬがベランダから広がる暁の空を陶然と眺める場面でエンディングとなる。——まるで照生独り何を思う——と観客に問いかけるように。

——この二人の関係は葉がタクシーの運転手を生業なりわいとしている経済基盤ある立ち位置にいる。だから今後は早めに結婚し子供を生んで家庭を持ちたいと堅実に考えている女性であって、一方照生はダンスを断念し裏方に転身したようでも劇中からはまだ未練もありチャレンジしたい心情がわかり、多分照生の性格からもできればダンスで生計が立つようになってから結婚は考えようとしている。
そう考えると元々この二人に結婚という結末はなかったように思える。これを観ている我々も「ダンサー」という職業を「オシャレで格好いい」と感じているからつい、この二人がうまく行って欲しいように願ってしまう。それだけに終盤子供を抱いてベランダに顔を出した康太に失望を感じた方もいたかもしれない。
私も若年時代は自己表現カテゴリの職業を目指していたので、似たケースを多く見てきたが女性が3年めの葉のように「私は支えるよ」という姿勢の女性と役者、バンドマンなりと付き合っても支えられた上で売れた時点で捨てられている事が多かった。しかし今思えばその時の彼女達は決して「悲しい」だけではなかったと思うのだ。

この作品のベースはクリープハイプ尾崎世界観作の楽曲「ナイトオンザプラネット」だというが、正直インスパイア元であるジム・ジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」をわざわざ観る事はない。鑑賞上不都合はない。劇中でそれとわかるような配慮もされている。「観ていたからより深く観られた」などと言うこともない事は断言しておく。

出演者にも触れておきたいが池松壮亮はこういったダンサーのような役も肉体労働者の役も普通に違和感なくこなせそうなワイズのあるキャラクターなのがいい。老成して落ち着いた感じの少々癖のある語り口は役柄ではなくほぼ「」なのだ。

伊藤沙莉。引っ張りだこの彼女は本来「どこにでもいるような、決して美人ではないが愛らしい健康的な女性」の位置で役柄についているように思えるが、実はこんな女の子は現実には殆どいない。その意味で私は「架空の役柄」を演じている劇中だけの監督による都合のよい存在に感じている。

——どうも観終わってからもこの作品の魅力的な世界観に戻りたくなるので昨日2回目の鑑賞を終えた私だがきっと3度目もあるかもしれない。

また友人が教えてくれたが、葉が康太と出会った場面は神田の「レモンサワー・バル ウオキン」らしい。確かに葉のコンパ会場の「若竹」も正面にある。ここで「ごっこ」でもしたいですね(笑)

神田の「ウオキン」(右手)


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