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誰かが、私を傷つけることができるのだろうか。

ちょっとした記事に出くわし、ふと考える。
「こんなことを言われて私は傷ついてきた」という思い。

振り返ってみる。
自分が、誰かの言葉や行動に傷つけられたとことはあっただろうか?

子供の頃、親に叩かれたことがあったけど、その傷は心にも体にも残っていない。
ごめんなさい、なんて一言も口から出さなかったっけ。生意気な子供だっただけか・・。
幸い、他人に暴力をふるわれた事はない。
誰かの言葉に、腹の立つ事はてんこ盛りにあった。悲しくなることも沢山あった。
落ち込むことがないわけではない。

命を奪われるような恐怖に出会ったとしたら、悪意に満ちた恐怖を体験したとしたら、きっと生命として防御システムが働くだろう。

けど、人の言葉ごときで、相手は私の心を傷つけることができただろうか。
もし自分が傷ついているとしたら
それを傷をつけたのは自分自身だったと思う。自傷行為に近いのではないか。

お前は馬鹿だ!と言われたところで、あんたは馬鹿以上に最低だ!と舌打ちしていればいいか、と思う。でもお馬鹿な人とは話してみたい。最低な人間とは接点を持たない。

すると今度は、あなたにはできるだろうけど、できない人もいるんだよ、と言われる。「私は鈍感で強いから〜〜」といって会話は終わらす。
できない、やらない、どれも選択肢だと思っているから。
できないことを責める人はまだ成長過程にいると思い許してあげて。とりあえず遠ざかっておけばいい。

相手の言葉を丁寧にキャッチして、受け止める優しい人は、もしかしたらその言葉を処理しきれずに、自分で抱え込んでしまうかもしれないね。

相手のいうことは真摯に聞いているつもりだよ。けど
嫌だったら怒っていい。
人は失言なんて沢山する。相手に言葉の訂正を求めればいい。
そもそも受け取る必要もない言葉もある。

何を自分の中に入れて、何を入れないか
自分で決めればいいことだと思うのである。
命が続く限り、一つひとつ「心を決める」という作業を繰り返していく。
決めて出た結果は受け止めるだけ。失敗も成功もない。


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