大野 和寿

おおのかずひさ。アニメーション監督・原作です。

大野 和寿

おおのかずひさ。アニメーション監督・原作です。

最近の記事

中島みゆきさんのこと

中島みゆきさんを知ったのはラジオDJとしてでした。 中島みゆきのオールナイトニッポン。1979年4月から1987年3月までニッポン放送をキーステーションに全国31局ネットで放送されていました。 最初は松山千春さんのオールナイトニッポンを聞こうと思ってたのですが、曜日を勘違いして間違えて二週続けて中島さんの放送を聞き、三週目からは中島さん目当てで聞くようになりました。 小6の2月。1981年でした。 だから最初は中島さんは僕にとっては面白い喋りをする明るいお姉さんであり、中島さ

    • 映画「さびしんぼう」のこと。

      1985年公開だったと思います。 そもそもなんで映画「さびしんぼう」を見たかというと、高校のクラス担任が「お葬式」という映画を絶賛しており、機会があれば「お葬式」は絶対に見るようにと言っており。 で、うちの田舎にあった一軒しかない映画館に「お葬式」が来た時、いそいそと見に行ったら、併映が「さびしんぼう」だったのです。 高校2年生の大野には「お葬式」より「さびしんぼう」のが二億倍感動し、映画館にあった一畳くらいのポスターを1,000円で譲ってもらったり、14,800円もするV

      • 映画「精霊のささやき」のこと

        2023年8月31日(木)、19:00より京橋のフィルムセンター、今は国立映画アーカイブというらしいですが、そこで「精霊のささやき」を見ました。 おそらくスクリーンにかかるのは1987年のロードショー以来ではないかという話でした。 監督は去年逝去された植岡喜晴さん。 植岡さんがメジャー映画を監督されたのは「精霊のささやき」一本きりでした。 ですがこの「精霊のささやき」は傑作幻想映画で、本当に何というか、映画かくあるべしみたいな作品で、映画でしか表現し得ないものを見事にフィルム

        • 二人の映画監督のこと

          僕には個人的に思い入れがある二人の映画監督がいる。 安原伸監督と、植岡喜晴監督である。 お二人とも物故されている。 安原監督を知ったのは、1990年頃、TBSの深夜番組でである。海老反り巨匠天国という、映画監督発掘番組に「国防挺身隊」を引っ提げ安原監督は登場した。 https://youtu.be/vQRpDyWekfI?si=Nn-qi5XxSrma6T64 自主映画でありながら、小気味よい編集と面白い内容で圧倒された。 後年、知己を得て何度かお会いする僥倖に恵まれた

        中島みゆきさんのこと

          聖悠紀さんと奥様のこと。

          聖悠紀さんと奥様には一度だけお会いしたことがある。 何年か前、アニメーションキャラクターデザイナーのそえたかずひろさん主催のカレーパーティーが新宿であり。その時同席になったのだ、聖悠紀さんご夫婦と。 全く面識がなかったので、その席でお互いに自己紹介となり。 僕の目の前の素敵なご夫婦の旦那さんは 「超人ロックという漫画を描いております」 とおっしゃられ。 …?!超人ロック!ということはあなた様は聖悠紀さんということでしょうか。 「はい」 マジか! しかしこの時僕は失態を犯す。

          聖悠紀さんと奥様のこと。

          シンガーソングライター山本さとしさんのこと。

          山本さとしさんのことを知ったのはかれこれ今を遡ること38年前の1985年。 珍しく僕の住んでる超ど田舎にとある歌手(シンガーソングライター)がライブに来るという。 そんな文化的なことは、ここ中村市にはまずないのでこれは行かねばと高校2年生の僕は何はともあれ行ってきました。 そのライブには同級生の堀野このみさん(仮名)も行ってたらしく、公演後「登壇歌手のカセットテープを買ったけどどうしても聞きたいというなら貸してあげる」と言うので、どうしても聞きたいと言い貸してもらいました。(

          シンガーソングライター山本さとしさんのこと。

          未来警察ウラシマン第49話スタッフリスト

          製作 吉田健二 企画 岡  正(フジテレビ)    内間 稔(読   広)    久里一平(竜の子プロ) メカニックデザイン 大河原邦男 キャラクターデザイン なかむらたかし            加藤  茂            井口 忠一 原案・構成 曽田博久 技術監修  宮本貞雄 音 楽   風戸慎介 連 載   少年チャンピオン       冒 険 王       マイアニメ          (秋田書店) 主題歌 「ミッドナイト・サブマリン」 「ドリ

          未来警察ウラシマン第49話スタッフリスト

          未来警察ウラシマン研究同人誌のこと

          2021年3月現在取材中の未来警察ウラシマン研究同人誌は、ウラシマン第49話「愛と死の超能力」に焦点を当てたものになります。 ウラシマン自体は50話からなるテレビシリーズであり、当然その膨大な分量の中に様々な見所があるわけですが、個人的にはその魅力の中心核は第49話に凝縮されていると思っています。 ウラシマンが放送されていた時代は、日本はバブル好景気直前の1983年。全てが明るく上り坂だった頃です。 ネアカ・ネクラという言い方に代表されるような、楽しくなくっちゃテレビで

          未来警察ウラシマン研究同人誌のこと

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その6

          「こんな話やりたくねえよ」 キャラクターデザイナーは言った。いやまあそんな回もあるだろう。とはいえ仕事としてこなさない局面もあるのではと僕は思っていた。 しかしそれは甘かった。 無責任艦長タイラー第6話は、絵コンテ決定稿(監督が切ってた)、美術設定も上がったところで制作中止になった。そんなことあるのか。さすが最前線のアニメーション制作現場。クリエイターの意向は通るもんなんだと、その時は素直の感動した。 だがあれから29年。デザイナーが嫌だからと言って制作中止になった話

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その6

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その5

          1992年3月。タツノコプロは30周年記念作ということで全社挙げて「宇宙の騎士テッカマンブレード」を制作していた。 メインのスタッフはみんなテッカマンブレードを作っていた。 他方タツノコプロ白馬スタジオで制作されていた「無責任艦長タイラー」は監督こそタツノコプロ生粋の真下耕一さんだったが、制作はデスク以下全員新人という脆弱な体制だった。 制作の経験者は3ヶ月前に元いた制作会社が倒産し、タツノコプロに転職?してきた堀川憲司氏のみ。その堀川さんにしたってデスクとして制作に当

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その5

          テレビアニメーション設定制作のこと(原作とは無関係)その4

          アニメーター列伝:村田俊治 村田さんがタイラー#2の原画マンとしてやってきた。バイクにまたがり肩パットと鋲のついた服を着て。 ラジオ制作会社から転職したての24歳の大野には、村田さんの姿はどー見てもマッドマックスか北斗の拳の悪役にしか思えなかったのだが、聞けば機動警察パトレイバー劇場版の冒頭、富士の樹海での無人暴走レイバーと自衛隊の戦いを1人で描いたという。 村田さんは#7から作画監督も兼任することになった。 村田さんの作画監督回の演出はいつも澤井幸次さん。澤井さんで

          テレビアニメーション設定制作のこと(原作とは無関係)その4

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その3

          1993年放送を目指していたタツノコプロ制作のテレビアニメ無責任艦長タイラーは、タツノコプロ本体の鷹の台スタジオではなく、JR国分寺駅側の雑居ビル=白馬ビル5階にメインスタッフを集め制作準備が進められていた。 僕はそこへ設定制作という聞き慣れない役職で詰めることになり、タツノコプロ入社初日の夕方、連れて行かれた。 初めて会う無責任艦長タイラーのメインスタッフたち。 僕はそれまでのラジオディレクター経験から、まず最初は挨拶が大事だろうと思い、白馬スタジオでキャラクターデザ

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その3

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その2

          1992年、タツノコプロは本社はJR国分寺駅前に自社ビルを構えていたが、制作現場は西武線で国分寺駅から二駅北上した鷹の台にスタジオがあり。 その年の一月から放映していたテッカマンブレードは、その鷹の台スタジオで制作されていた。 転職初日は確か鷹の台のスタジオに連れて行かれたと思う。 そこには、数ヶ月前に働いていたアニメスタジオが潰れたという制作進行の方が、今回初制作デスクということで座っていて、僕を迎えてくれた。 背の高い彼は、「堀川です」と名乗り、「部下ができて嬉し

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その2

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その1

          第1話の作打ちは、1992年の春だった。 その年のお正月は、まだ僕はラジオディレクターで、明治神宮で獅子舞をかぶって昼の情報番組で中継をしていた。 ラジオの仕事は面白かったけど、タツノコプロからの「真下耕一監督の新作が動くけど、大野くん、真下さんと仕事したいって言ってなかったっけ?」という誘いに、23歳の僕はふら〜っとなっていた。 真下耕一監督といえば、未来警察ウラシマンのチーフディレクターである。その人と仕事できる機会を提示され、自称世界一のウラシマン愛好家としては、

          テレビアニメーション 設定制作のこと(原作とは無関係)その1

          村田俊治さんのこと

          村田さんとの初めての出会いは、スクリーンを通してでした。 機動警察パトレイバー劇場版。 1989年の夏、新宿松竹に、上智大学に通っていた戸梶くんと見に行きました。 映画の冒頭、富士の樹海で繰り広げられる自衛隊と無人レイバーの凄まじい攻防。 何だこれは?!こんな激しくすごい掴み、初めて見た!と、映画視聴開始1分で心は鷲掴みにされました。 その映画史に残るシーンを描き切ったアニメーターが、村田俊治さんでした。 三年後、僕が無責任艦長タイラーの設定制作として、ラジオ局の下請

          村田俊治さんのこと

          瑞木理央さんのこと

          瑞木理央さんとは会ったこともないし、直接お話ししたこともありません。完全にweb上だけでのお付き合いでした。今風といえば今風です。 瑞木理央さんは「月ノヒカリ」という筆名でブログもされており、そこで中島梓論や色々興味深い内容の文章を、ユーモアを交えてあげられていました。 でも、もう2ヶ月以上ブログの更新がなされていません。 瑞木さんの本名も連絡先も知りません。けれど、お別れを言わないといけないのかもです。いや、最後のブログが投稿された時に、すぐ何か言うべきだったのかもで

          瑞木理央さんのこと