人生は挑戦の連続だ

10月14日(日)に2018年トライアスロン日本選手権が行われました。

僕の結果は8位。
順位に関して言えば、今年ターゲットにしていた順位を獲得できたけど、ランニングで力を出し切れなかったので正直そこは不完全燃焼。
引き続き精進して参ります。

さて、ここから本題。

人生は挑戦の連続だ。

きっと挑戦の連続でしか、たどり着けないところを目指して僕は戦っている。


僕の人生は挫折の連続だった。

物心をついた時に水泳をやっていて選手コースに5年生の時に上がったけど、既に1歳下には僕より速い選手がいたし(のちに彼は国体を優勝する)

自分が好きで始めたバスケットは全然うまくなくて中学生最後の試合で一回勝てただけ。(だけどこの一回の勝ちはとてつもない価値があった。)

バスケ部なのに脚が速かった。
中学1年から3年までバスケ部なのに校内マラソン大会3連覇した。中1で優勝したからか、中学2年生に上がって秋にまた駅伝部に戻った時、一個上の長距離の先輩達は皆中距離とか短距離に移籍してた。
当時は気付かなかったけど、時間が経って気が付いた。


中3でさいたま市駅伝大会で優勝できた。これはとてつもなく嬉しかった。

でも県大会に行ったら全然相手にならなかった。

高校推薦がかかって浦和実業に特待生で入った。

好きなバスケを続けたかったけど、始めは一度決めた道から逃げるみたいで頑なに拒んだ。

親父に毎日正座させられながら1時間説教される。
根負けした。

せっかく陸上に競技を変えるなら、オリンピックだ。箱根駅伝に出て優勝してスターになって、奥さんと子供を幸せにするんだ。
親父が毎日、法政の徳本みたいに箱根をわかせるスターになれと言ってたけど、誰だその人。


毎年冬は学校までの片道5kmを走って通っていた。
初めてリュックに弁当を入れて学校まで走って通った日お弁当箱はぐっちゃぐちゃになっていた。
美味しく食べたけど、強くなるならそれでもいいと思った。
同じことをやってる友達に弁当箱を一番下に入れて上に着替えを入れたら、ぐちゃぐちゃにならないと聞いて真似したら綺麗なままだった。勉強になった。

中学校の時、県大会で勝てなかった奴らとライバルになって大会でよく戦った。
1500mが得意だった。同じさいたま市出身の友達2人がライバルだった。内藤と花島。
一人に勝つと一人に負ける。いつも2番だった。

高2で1500mインターハイ決勝まで行った。
高3で1500mインターハイ5位、5000m18位になった。
優勝を狙っていたけど、清々しい気持ちだった。

よく部室で陸マガを先輩が読んでいた。あんまり他人に興味がなかったけど、佐藤悠基って選手が速いって言うのを聞いていた。四天王って世代はやべえな、まけられねえな。

大学は青山学院大学に決めた。
決めた当時は、箱根駅伝に出てないチームだった。
自分がエースになって箱根優勝校に導く。

そんなことを思っていた。

自分が入ったら記念大会枠でギリギリ13番目になって先輩たち先に箱根を経験してくれてた。

入学当時の4年生キャプテンの荒井さん寮長米澤類さんが、弱かったチームをずっと2人で引っ張っていて早く活躍して負担を軽くしたいと思ってた。

だけど大学の距離に対応するのが本当に苦しくて全然結果出なくて、初めて陸上で挫折した。
大学1年の夏に怪した怪我も半年治らなくて、その間に自分より遅かった同期4人箱根を走った。
その一人が出岐だった。

彼はエースになった。出岐を中心にチームが回っていった。
俺がそうなりたかった。青学のエースに。大学長距離界のエースになりたかった。

何度もやめようと思った。

治って練習ができるようになると前向きになった。
大学3年で始めて箱根駅伝を走った10区。
繰り上げスタートだった中央と順大追い上げてきて、一緒に後半3km走った。
競り負けて過去最高の5位だけど、見た目的には7位。
自分がアンカー走ってる理由はせり勝つため。
なんと5位でゴールできた。
声援が大きすぎて片耳が聞こえなかった、初めてだった。

全日本大学駅伝予選でボロ負けして、チームを辞めさせられそうになった。
4年生で一人監督に文句言ってからだ。
卒業後に就職する予定の実業団に夏合宿ずっと参加させてもらった。

一人外れて練習してたから、チームにもう居場所がないと思ってた。
帰ってきて初めて13分代出して、出雲駅伝区間賞取った。
記者会見の前に色んな思いが込み上げてきて泣いてしまった。優勝もした。最高だった。心が震えた。このために競技をしているんだ。

箱根は出岐が調子が悪く2区に起用された。
レースの10日前だった。
合宿先で酔ってる監督に2区に起用するからと言われた。
その日は眠れなかった。

結果は8位だった個人としては2区区間5位。
初めてゾーンに入ったレースだった。沿道の人達の顔と声がハッキリと頭に入ってきた。
レースを終えるとやっぱり方耳が聞こえなかった。

また、心が震えた

特待を全て蹴って青学に入った。奨学金を借りてたからお金がなかった。
卒業旅行はライバルの内藤と自転車で熱海に行った。
浦和の実家から農大の寮にいた内藤と合流して箱根を目指した。
小田原まで行って足が限界で山登れず、行き先を熱海に変更した。
次の日の朝に見た朝日がとてつもなく綺麗だった。涙が出た。

実業団に入った。
二度目の挫折をした。
熱意と行動がともなえば、才能を超えられると持っていたが、同じチームにいた18歳のケニア人にボコボコにされた。
かつて憧れていた名選手達と同じ実業団という土俵で戦うことになった。
勝てないと思ってしまった。

競技に熱をもてなくなった。
結果がでなくなった。当たり前だ。
実業団をクビになった。

本当に自分が活かせる場所はどこだろう。
もう一度情熱をともせる場所はどこだろう。

移籍も考えたけど、全くお門違いのトライアスロンに転向することに決めた。

かなり長くなったけど
いま自分の半生を振り返ってみたけど、
思い出すことは挫折したこと。
だけどそこからどうやって成長しようか、考えていた。
競技を転向することもそうだし、練習の内容を変える事もそうだし、環境を変えることもそうだし。

だけど
1番大事な部分は昔から変わっていないと思っている。
そう思っている。


ガキの頃、夢踊らせて憧れたかっこ良くて輝いてるオリンピック選手に
俺は本気でそんなヒーローになりたいと思っている。


形を変えても、結果を出せなくて迷っていた時も、挫折した時も、今までもこれからも。

きっと挑戦の連続でしか、たどり着けないところを目指して僕は戦っている。

もう一度、あの心震える感動を。

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