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バーチャレ in 埼玉 をやることにした

コロナウイルスの影響で今年の上半期のレースが全て中止になった。

自分が目指していた東京オリンピックも延期。
選考も中途半端なまま、
報告も出来ないまま、
自分自身の今後のレースも生き方も見つけられないまま、
何となく練習をする日々を過ごしている。

そんな中でも時間が過ぎていて。

下半期のレースも続々と中止の発表がされ始めた。

7月27日
第32回出雲全日本大学駅伝選抜駅伝競走の中止が発表された。

第24回大会出雲全日本大学駅伝選抜駅伝競走

僕が大学四年生の頃に青山学院大学として初めて3大駅伝を優勝した、思い出の大会だ。

一個上の先輩である2代目山の神、柏原竜二選手が卒業し、
絶対王者東洋大学の時代から戦国駅伝時代へと移り代わる過渡期。

どこの大学が活躍するかマスコミもファンの皆さんも、そして僕ら選手達も分からない谷間の時代だったと思う。

今ではマラソン日本記録保持者である早稲田の大迫選手、
元マラソン日本記録保持者である東洋の設楽ゆうた選手をはじめ、
後輩達に力のある選手が多く、
僕らの代は下から突き上げられた谷間の世代だった。

そんな当時の青学といえば、
スーパーエース出岐雄大を、スーパールーキー久保田和真を有し、前年度箱根駅伝5位と波に乗っていた。
(のちにハーフマラソン日本記録保持者になる小椋選手、3代目山の神、神野選手も1年時から力のある選手だった)

だけど、全日本大学駅伝予選は大惨敗。
箱根駅伝5位に入ったチームが全日本大学に出れない、まさしく戦国駅伝時代だった。

外から見たチーム状況は分からないが、中から見た青学のチーム状況は悪く、その原因が私だった(監督にそう言われる)
2012年3月、キャンパスに新しくトラックができトレーニングが大幅に変わり練習の質、量共に上がっていた。

これが相当キツかった。
春休み期間ならまだしも、学校が始まって渋谷キャンパスの授業が終わった後に
走って表参道駅に向かって電車に飛び乗り、
寮に戻って5km先のキャンパスまで走ってウォーミングアップ。

12000mPR3分30秒+200m×5本30〜28秒。

終わったら走って寮に戻る。
その時には夜の1930。

これが火曜日金曜日。
もちろん朝練も集団走12〜15km1km4分ペース

水曜日土曜日には朝から集団走、午後にポイント練習という1週間の大まかなスケジュールだった。

。。。。

エースでキャプテンは大学3年時に走ったびわ湖マラソン(初マラソン2時間10分02秒、大雨の寒い中でのレースで万全のコンディションで走ったらどうだったのか。)
の疲れが抜けず調子が上がらなかったし、
久保田小椋神野といったプラチナ世代は箱根駅伝に夢を見て入学してきてくれたのに、
僕ら先輩達は練習量が多くて疲弊していた。

僕は真っ先に意見を言ってしまうタイプ。
練習量が一気に多くなりすぎてて、みんな疲れてるねって声を大にして話してしまう。

これが監督からしたら文句に聞こえたんだろう。
(いま思うと、もっと前段階で直接監督に話に行くことをすれば良かった、裏でコソコソ言われてる気がして気分良くないですよね。僕が悪かった)

カリスマが抜けたチームはどこか一枚岩じゃなく、
みんながみんなどう進んでいいか分からない状況だったと思う、それは原監督も。

全日本大学駅伝予選の1週間前に
監督に意見を言いに行った。

練習メニューが多すぎてみんな疲弊しています。
どうにかメニューを変えてくれませんか?

お前が俺に意見を言うな。
そんな選手は大会に使わん。いらん。

分かりました。

。。。。

同期が部屋に来てくれた。

大谷が走らないと本当に全日本は予選落ちする。
頼むから監督に謝りに行ってくれ。

間違ったことを言ってないと思っていたけど、
悔しくて情けなくて泣きながら監督に謝りに行った。
それはチームのためを思っての事だった。

結局チームは大惨敗。

チームとしても個人としても最悪の結果だった。

今でも拓也が走り終わった後に、本当に申し訳なさそうな顔をして
大谷さん、ごめんなさい。。。
と泣きそうな顔で謝ってきたのを、僕は忘れられない。

自分の走りで挽回したかった。

試合後のミーティングで
大谷のせいで負けた、こいつが悪い。

頼むから部活やめてくれないか?と。

。。。。

夏合宿は大学と別行動で入社する予定だったトヨタ紡織陸上部の合宿に参加させてもらった。

覚悟を持って練習した。

もう大学には居場所がないと思っていた。

振り返ると過去1番練習したのが、この時だった。

今でも親友の東洋大学の山下りで名を馳せた市川選手とバチバチに練習してた。

16000mPRを後半の5km14分23秒とかで上がってきた気がする。

前半もかなり良いペースで走ってたし、本当に質と量ともに高かった。

結果を出して自分で掴みとりにいかないといけない。と毎日ビクビクしながら夏合宿をこなしていた。

9月の上旬に1ヶ月半ぶりに大学に戻った。

合流後、すぐ監督の母校がある広島県世羅市に移動した。

チームとしては3次合宿、夏の総決算。
そして5000mの記録会に出場し、出雲駅伝の選考を行うためだった。

蒸し暑い夏の夜だった。

僕はチームトップ、自身初の13分台だった。

仲間がみんな一緒に喜んでくれた。

一緒に泣いてくれた仲間がいた。


一個下の遠藤とかホンマに泣いてくれた。
ミーティングで声を出せなかった仲間達が、泣いてくれて喜んでくれた。

チームに居場所がないと自分で思っていただけだった。

。。。。

ぶっちゃけ言えば
優勝を狙っていない出雲駅伝だったが、

1区小椋が秒差でタスキを繋げる。

2区藤川拓也が2位でタスキを繋げる。

3区スーパールーキー久保田和真がぶっちぎりで先頭を走ってくる。

出雲駅伝、4区の自分に襷が来た時

人生で初めて駅伝で先頭を走る経験をした。

監督には2分55秒で推していけと言われていたけど、
1km2分38秒3km8分18秒で通過した。

身体が予想以上に動いたし、舞い上がっていた。

観客は本当に全然いなくて。笑

それでもテレビ越しに何万人の人が応援してくれてるんだろう、と思ったら力が湧いた。

ラスト2km切ったところ。

きちい〜〜〜〜と思っていたら横から

遼太郎〜!!!!!!!

と。

母、弘子だった。

埼玉から夜行バスで応援しに来てくれてたらしい。

連絡はない。

驚いたけど恥ずかしかったけどパワーが出た。

襷を5区の福田雄大選手に繋いで、

付き添いのマネージャーにダウンもせずに早くタクシー乗ってゴール行かないと間に合わないですよ!!
と急かされたけど、

いやいや、先頭走ったんだからインタビューあるやろと思って、待ってたら

まさかの区間賞。

しかも区間新

それを伝えてもらった時に

感極まった。



監督にチームやめてって言われて、

チームに居場所がなくて。

もしかしたらそれが監督の愛だったかとしれないけど、

ガキだった自分にはそれを受け止める器がなくて。

仲間がいないと思ってたけど、みんな待っててくれてて。

一気に感極まった。

男泣きをしてしまった。

レースの途中だったし、
未だにインタビューで泣いたことに対して、ちょっと弄られることがあるけど

あの涙は一生懸命だった証で、
私の宝物でした。

初めてこの話をこういう場所で伝えた。

インタビューの途中で感情のピークが過ぎちゃって、
途中から泣き止んでしまったけど。笑

ゴールテープを切った出岐を迎えに行って。

監督のめちゃくちゃ嬉しそうな笑顔を見て。

胴上げがめちゃくちゃ重くて。笑

控えだった高橋そうし(箱根駅伝2度区間賞)も橋本りょう(MGC日本人5位)も笑いながら泣いてて

仲間達のこの笑顔見たかったんだよなあ、、


頑張って良かったなあ、、、

優勝インタビューは1区の小椋が喋りすぎて、
俺一瞬で飛ばされるし。笑

東京戻って大学行ったら、一般学生がめちゃくちゃ喜んでくれてて。

うちの大学って、そんなに強くなかったし箱根駅伝応援してくれる学生も多くなかったけど、

反響の大きさに驚いたな。。。

出雲駅伝終わって東京戻って一発目の練習は各自ジョグだったけど、

これで箱根勝てなかったらバッシングヤバいって、無駄にビビってさ笑

出岐と俺と拓也で21kmジョグを1km4分でやったっけ。
出岐は25kmいってた気がするけど。

。。。。

そこから国際千葉駅伝にも、学生代表で選んでもらったし、
箱根駅伝も2区を走らさせてもらった。

俺は俺なりの、大学駅伝を駆け抜けた4年間だった。

。。。。

先日、原監督がツイートしていた

大人の1年と学生の1年は重みが違う。

というツイートを見て。

出雲駅伝の中止を聞いて。

大したことない自分でも、
たった1年間で自分なりのドラマがあった。

学生の数だけドラマがある。

そう信じてる。

。。。。

少しでも今の学生に何か出来ることはないか?

自分1人では小さい力かもしれないけど、
学生よりもちょっと長く生きているだけあって力になってくれる人はいるはず。たぶん

次の世代に、学生に、子供達に襷のように想いを託していかないと。

言い訳ばかり言って、他人に物事を任せるのは止める。

大学駅伝走った僕も、もう今年30歳ですよ。笑

。。。。

バーチャレ in 埼玉

やります。

申し込みは下記URLから。

※無料です

バーチャレ in 埼玉

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