即興演奏について

こんにちは。

笙奏者の大塚惇平です。

(白州断層にて 写真:鈴木竜一朗)

自分がやっていること、感じている世界というのは、今の社会の中だと伝わりにくい部分がすごくあって、自分自身、やはり言語を持つ必要があると最近痛感している。それも、「今の社会の文脈に沿った言語」が必要なのであって、そういう言語を持つことが、社会性ということでもあるのかなとも思う。アートとは、この世界の「外側」を指し示すための営為だが、その営為の存在自体を指し示し伝えるための言語。

以前ある人に、大塚さんが求めている音は、大塚さん自身と、社会の状況とか、色々な要素がカチッとハマった時に現れてくるものだと思う、と言ってもらったんだけど、まさにそうだな、と思う。笙の音ってまさにそういう音。

響きとは、全体が関係して、鳴っているもの。

では早速、なぜ即興演奏だったのかということについて少しずつ書き始めてみたい。

まず、笙との出会いも含め、僕はヴォイスヒーラーであった故・渡邊満喜子さんの影響が大きい。絶版になっているが、彼女の著書の「ヴォイスヒーリング 魂を癒す歌」(春秋社)を引っ張り出してきて、15年ぶりくらいに再読してみた。

彼女はいわゆる今で言うところの「ヒーリング」の世界とは無縁のところで、「ヒーラー」となった。メキシコの大地や文化との邂逅、そしてご自身の人生の困難がきっかけとなり、一連のいわゆる「神秘体験」「身体的な変容」を経て自身の精神的、身体的治癒を経験した。さらにそこから、メキシコの教会での体験を経て、声を通して他者を癒す「ヒーラー」として歩むことに導かれてきた。ある意味で、沖縄の女性が「カミダーリ」を通してユタになっていくのと同じような、典型的なシャーマンになる過程を経た人だ。

改めて読みなおしてみて、実はけっこう感動した。何かのイデオロギーに染まることもなく、ご自身の体験を知的な文体でそのまま記述していく姿勢に、女性的で豊かな感性が織り込まれていている。もともと編集業や、文筆業に携わっていた方だったと言うことがとても良いバランスを取っていたのだと思う。

僕は彼女にハタチの頃に出会い、ワークショップに通い、そして彼女の即興のヴォイスのパフォーマンスグループで歌うようになった。それまでずっとクラシックギターやエレキギターを弾き、バンド活動をしていたが、そこに行き詰まりを感じ、彼女の元でより深い「響き」の世界があることを学んだ。

彼女にとってなぜ「即興」だったのかと言えば、彼女の言としては、「生命の根源から生まれる歌は、誰でももっている自然治癒力の音楽的発現」だったからだ。技巧的な意識を通すのではなく、身体の深層から溢れてくる「声」は、そのままに「音楽的な美しさ」を持っていた。それは今ここで奏でる即興的な表現でこそ、本領を発揮するものだった。

普通の社会的な自我をもって生活を送っていると我々は見失いがちだが、表面的な意味での技術とか、芸ではない美しさの地平、もっと深いレベルでの、その人そのものの美しさの地平というものがあるように思う。そこは、どちらかというと命とか、魂という言葉の世界で、そこから翻って、それは自然の中にある美しさに近い世界だと思う。繋がりの中で響きあっている世界。そういう感性が育っていたからこそ、笙の響きに自分は出会ったのだと思う。実際、僕自身はその即興パフォーマンスの舞台で笙と出会った。

しかし、最終的に彼女の元で即興で歌うことや、彼女自身の在り方に疑問を感じ、彼女の元を離れることになった。即興による音楽表現の在り方にも疑問があったし、ヒーラーである彼女の在り方にも色々な問題が出てきていた。

しかし今回、改めて最初の彼女の大元のバイブレーションに触れることで、自分のルーツにあるものが見えてきたように思う。もちろん、私自身即興についての考えや、やり方もその後どんどん変わっている。だからこそ、そこから雅楽という「型」の世界に飛び込むことは大いに苦痛を伴う経験でもあり、さらにそこにあるもっと根源的な「分離」の問題にも直面したのだが、自身の音楽的成長のためにそれは必要なことだったと感じている。

命そのものであることは大いなる喜びそのものだが、ある面ではinnocent、脆弱であり、危険性もある。一方、命の表出を失った「型」「かたち」は、文字通りの形骸化でしかない。表現として成り立たせるためには両者の統合が必要なのであって、そのための道を今も歩んでいるのだという気がする。

もうひとつ、思い出した大切なことがあるので、それは次回書いてみることにしたい。


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ohtsukajumpei

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