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個別的な知と原理的なひかりのあわいで

たまたま私が昔から好きな現代アーティストの近藤聡乃さんの作品の表紙でジャケ買いした、翻訳者のくぼたのぞみと、斎藤真理子の往復書簡集「曇る眼鏡を拭きながら」集英社

久しぶりの専門外の読書に、なんだかとても久しぶりなような、早稲田の文学部生だった頃のような気楽さと、新鮮な喜びを覚えたのと同時に、こういう「喜び」から久しく離れていたのだなあということを少しさみしくも思った。

私の師匠であったヴォイスヒーラーの渡邊満喜子氏も、ヴォイスヒーリングとしての仕事をするうちに、「自分が広大な集合意識の領域に漂う内に、かつてあった個別的な知への喜びを失ってしまったことに気付いた」と著書の中で書いている。

そのとき、村上先生の研究室で、20代の生意気で常に知識に追い立てられるように本を読んでいた自分が、鮮やかな身体感覚を伴って甦った。

私は「世界がどんなものか」知りたかった。知的渇望は、いつも胸がドキドキするような世界に私を連れて行った。あれは確かに私だった!

その瞬間、自分でも驚くほどの声を伴って、嗚咽が込み上げてきた。私は何をしてきたのだろう?私はどこへ行っていたのだろう?ずっと「自分」という明確な輪郭をもたずに、広大な無意識の海を泳いできたのだ。

それはいつの間にか私を「原理的なことは、身体をとおして理解している」と感じさせてきたのだ。そしてそれは、個を超えた領域では確かにその通りだった。

私は声をとおして最も原理的なひかりに満たされて、個々の知識がもつ生き生きとした魅力から遠ざかってしまったのだ。

「私のあの知的渇望は・・・」といいかけて、後は言葉にならなかった。

「もう戻ってこないのだろうか」と続ける前に泣き崩れてしまったのだ。

私は叩きつけるように叫ぶ自分の声を聴いた。

「ヒーラーなんかにならなければよかった!」

渡邊満喜子「声をめぐる冒険」春秋社 p.102~103

その気持ちがよくわかる。おそらく編集者であり文筆家であった満喜子さんほどではないと思うけれど。

魂の領域を彷徨することは、事象のより抽象度の高い領域を扱うことでもある。個人個人のエネルギーに耳を傾け、その語ることを声にしていく。より深い身体的な領域に存在する「原理的なひかり=真理」の領域を彷徨することは、様々な本や映画、音楽について知識を吸収し、自分の中で編集し、それを表現したり語り合うような「個別的な」喜びから離れていくことは事実だ。

たしかに、魂の領域のリアリティーに目覚めていくということは、地球の個別的で具体的な周波数から離脱していくということではあるから。それは古今東西の宗教者もまたそうであると思う。

くぼたのぞみさんと斉藤真理子さんの生き生きとした文学を巡る往復書簡を読んでいたら、そんな「生き生きとした個別的な知」の喜びがなんだか戻ってきて楽しい。そしてそんな対話が羨ましくも感じる。

僕もまだまだ社会的にはマイノリティである「魂」を巡る「個別的な知」について、いずれは嬉々として誰かと語らってみたい。


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