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「両ごく回向院元柳橋」−出幣のお陰で快晴ネん−『名所江戸百景』

今日は肩が痛くて痛くて回してばっかり。
凝って凝って仕方がないのでお灸を貼ってみました。
ドラストで売っている、煙出ないタイプのシールタイプのお灸です。

今ひとつ効果は現れないのでまた明日もやってみようと思います。

凝っているを超えて痛いんですよね。
整体行こうかな。


そんな肩こりで泣きそうな今日も広重

今回は『名所江戸百景』「両ごく回向院元柳橋」です。

また前回と似たような構図です。
手前に縦画面いっぱいのモチーフを配して奥に風景が描かれており、遠近がはっきりして立体感が生まれていますね。
川に浮かぶ船の帆が膨らんでいる様子から風がいささか吹いているのもこの快晴に似合います。
意外と川の岸を表しているのが砂場とか浜辺とかではなく蔵の屋根屋根なのがカモフラージュみたいで面白い描写。

そもそも題名の回向院とは何か、知らないので調べます。

回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。

なるほど。明暦の大火で亡くなった人々を弔うための御堂ということですね。

そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。

勧進相撲の定場所とされ、回向院相撲の時代を相撲界に残したそうです。
その回向院相撲を象徴するのが絵の手前に大きく掲げられた櫓です。

竹竿に麻の御幣を吊るした出弊が、相撲の場所中に快晴であることを願って掲げられたのです。
相撲は晴天の中行われたのでこれを掲げる意味もあったのです。

こちらの記事で回向院相撲について詳しく書かれています。
回向院相撲を描いた浮世絵はたくさんあるそうですね。

歌川国芳「勧進大相撲土俵入之図」です。
左の空に見られる櫓が出幣でしょうか。

大きな力士が並んでいるのが迫力のある絵に仕上がっています。


赤いピンで刺されたところが柳橋で、題名の元柳橋の前身です。

両国界隈に入ってから両国橋の周りばかりをやっているのでなんとなくここら辺の地図はわかってきました笑。

絵の富士山の右下に見られる橋が元柳橋です。

その奥の分家した川が神田川ということですね。

ちょうどこの絵を描いている場所が両国国技館の方面であるということらしいです。
だから富士山が見れるのですね。

上の地図では国技館がちょうど全部見えないようになってしまいましたがぎりぎり見れますのでお許しを。

今日はここまで!

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