2年半ごしの退職エントリ

この記事は私が所属する組織または所属していた組織を代表するものではありません。

退職エントリというものがあまり好きではなかった。好き勝手書き散らかして、組織に残る人間に後ろ足で泥をかけるようなオフェンシブで誇張的な書きぶりの文章が、私の知る退職エントリの悪い特徴だったからだ。したがって私は2016年に当時勤めていた会社を退職したとき、周囲からは退職エントリを書かないのかと尋ねられたりもしたものの、それでも書くつもりは無かった。

しかしあれから2年半が経って心境の変化もあり、ついに退職エントリを書くことにした。最大の理由は、当時のことをある程度冷静に振り返ることができるようになってきたからだ。もし退職直後の興奮冷めやらぬ震えた腕で筆をとろうものなら、まさに冒頭で述べた泥まみれの退職エントリが世の中に1本増えるだけの結末に終わっていたと思う。もちろん今書いたところでそれは変わらないのかもしれないが、それでも当時よりは幾分かマシになっているはずだ。

私は地方のIT系ベンチャー企業で働いていた。IT系中小企業と呼称したほうが正確かもしれないが、分別方法がよくわからないのでここではベンチャー企業と呼ぶことにする。ベンチャーというだけあって働き方は良くも悪くも自由だった。よく社内制度に関してメディアから取材を受けたりするほどユニークな働き方は特長のひとつだった。業務内容は受託開発が大半を占めていたが、自社製品もあったし、技術系イベントの運営なども行っていた。そしてこれはそれほどメインの制度ではないが、コーラを自由に飲めるのが私の密かなお気に入りだった。

また、近くの理系大学から学生プログラマーを多く雇っていたのも特徴的で、彼らは確かに大きな戦力であった。かくいう私自身もこの学生プログラマー出身で、2年ほど会社でアルバイトをしたのち、学部3年で大学を退学してそのまま正社員となった。端的に言えば早く働きたかったからだ。最初はウェブエンジニアとして入社したが、退職前の1年余りはCTOすなわち最高技術責任者という役職を拝命し、ほとんど全てのプロジェクトの技術を見る立場になっていた。

私が正社員になった時点から話を始めていきたい。一番最初のボスはデザイナーだった。仮にAさんと呼ばせてもらうことにする。美大卒で、某大企業から転職してきたのだと教えてもらった。私はアルバイトの頃からAさんと一緒に仕事をすることが多かった。デザインをもらって、自分が実装する。ときには私自身が Photoshop を触るようなこともあったし、Aさんが社外で行うデザイン講義のティーチングアシスタントをすることもあった。仕事以外でもよく一緒にご飯を食べに行ったし、美大の展覧会に連れて行っていただいたこともあった。初期はとにかくAさんは言わずもがな他のデザイナーとも協業する機会が多くて、ここで培われた分野際的なマインドは今でもプラスに働いている部分があると思う。

会社における初期の自分の働きは、高速でプロトタイプを作って案件をもぎ取る、言わば遊撃隊のようなポジションであった。ウェブ技術は特にそのような働き方と相性が良いと思う。実際、自分が作ったプロトタイプをきっかけに案件が発生して何年も続いていたプロジェクトもある。自分の作ったプロトタイプがお客さんを、案件を動かし始める瞬間は本当にワクワクしたし、この感覚を心の底から楽しんでいた。

社内の開発環境整備には心血を注いだ。まず全社的な Git の導入が最も根本的であったと思う。私が正社員になった時点でも既に一部のプロジェクトで Git が使われてはいたが、全社的に使われているわけではなかった。これをあらゆる開発プロジェクトで使うようにした。さらに SourceTree という Git の GUI を紹介して、非エンジニアにもバージョン管理を広めた。ときには隣りに座ってトラブルシューティングすることもあった。Jenkins などの自動ビルド・デプロイのシステムも整備した。初期はとにかく手動の作業によるトラブルが多かったので、自動化が進んでいくのは本当に気持ちよかった。

次点では JIRA, Confluence, Bitbucket といった Atlassian 系ツールの導入が根本的であったと思う。タスク管理ツールは存在していたが、これも全社的に使われているとは言い難かった。そこで、Git の全社的導入とそれに伴う Bitbucket の採用に合わせて、他の Atlassian 系ツールの導入提案を行った。導入コストと削減コストを定量的に比較する資料を作り提案ミーティングを開いた。導入が決まったときには、同僚と抱き合って喜んだのをよく覚えている。

社内制度の整備にも携わった。まずは定期的な勉強会の主催をした。これは社内向け勉強会もあったし、社外との共同開催のものもいくつかあった。またエンジニア向け勉強会だけでなく、社内で失敗体験を共有するフェイルコンや、非エンジニア向けの技術勉強会なども開催した。これらの勉強会開催の準備手順はすべて Wiki ツールに残した。勉強会は自分の主業務ではなかったし、できるだけ属人化しないようにしたかった。

また、学生エンジニア向けの環境整備も行っていた。まずは研修制度の整備。これ以前は全く研修制度が無く、それをOJTと呼べば聞こえはいいかもしれないが、人が増えるにつれて研修の必要性は日に日に増していた。研修制度が動き出してからしばらく経って、あるとき「ちゃんと研修してもらえるところが良いところだ」と新人スタッフに言われた。とても嬉しかった。

スタッフ評価基準の策定もした。いや、しようとした。これははっきり言って理想の水準には全く届かなかった。まず自分が評価基準のドラフトを作成し、何度も何度も何度もマネージャ陣や社内全体でミーティングを重ね、社員の意見をまとめた。しかし気づくと鶴の一声で仕事が渡っていたり、特別扱いがあったり、給料アップがあったり、正直手に負えなかった。ついには「正当に評価されないから」と辞めるエンジニアが現れ、評価基準の策定は急務だと気づきながらも、溢れるタスクに忙殺されて身動きは取れなかった。「お前がナメられているから人が辞めるんだ」と責められたが、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。これに対して反論するつもりはない。しかしとにかく、検討を重ねただけあって評価基準自体はそれなりに良いものだったので、退職した元同僚は新天地でその評価基準を活用してくれているらしい。

これ以外にもチャットボット導入や自動テスト、コーディングルールの整備、社内脆弱性報奨金制度の提案、採用に関する社内調整・面接など本当に色々やった。日の目を見なかったものには色々な理由があったのだ。

とはいえ私の軸足はプログラミングである。私自身のプログラマとしての仕事についても少し書いてみたい。上述のように私はウェブエンジニアとして入社し、初期はウェブフロントエンドのプログラミングがメインだった。HTML,CSS,JSを書いた。PHPも書いた。当時はまだIE8はもちろんIE7が生き残っていたので、悪名高いIE対応も経験した。それでもHTML5と総称されるウェブ技術は大好きだったし、それらの仕様にも興味があった。ECMA262の読書会に足を運んだり、 webkit や V8 の内部実装を読んだり、自作のウェブブラウザも少し書いたりしていた。こうした経験は今の職場でもかなり役立っている。ウェブ技術以外にも、あるときは自分がメインで C++ を書くプロジェクトもあった。またあるときは自分がメインで Android 開発をするプロジェクトもあった。苦労も多かったが、新しい技術に触れられるのは本当に興奮した。

退職前の1年余りは、プログラミングよりもサーベイが多かった。そのひとつには日本最大の金融系企業である某との協業があり、技術的知見を生かしてビジネスモデル提案を行うという仕事をしていた。コンサルティング会社や総研、総務省統計やらの資料からデータをかき集めて、自社ソリューションを含めてビジネスモデルの草稿を練り、先方と電話やテレビ会議ですり合わせるということをずっとやっていた。よくそんな大変な仕事ができたものだと今となっては信じられない内容ではある。

会社ではとにかく人的リソースに対して仕事が多く、タスクが溢れていた。繁忙期には恒常的に残業があった。もっと取捨選択の「捨」をするべきだったのではないだろうか。しかし当時は皆この状況が当たり前だと感じていたように思う。私の勤務状況は特にひどかった。まず朝は定時に出社する。深夜まで会社で仕事をし、そのまま会社のソファーで寝て朝を迎える。翌日の始業の前に一瞬だけ帰宅してシャワー・着替えを行い、またすぐに出社する。この繰り返しだった。寝泊まりしていた部屋は自分のせいでかなり汗臭くなってしまって、同僚にはとても申し訳なかった。「お前が勝手に残業してるだけ」と何度か責められたが、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。これに対して反論するつもりはない。

うまくいったプロジェクトはたくさんあったし、自分たちが手がけたものがお客さんに喜んでいただけるのは本当に嬉しかった。反面、うまくいかなかったプロジェクトもたくさんあった。うまくいかない原因は色々あった。プロジェクトに携わっていた以上、自分もその原因の一部を担っているのは確実である。全部を人のせいにすることは絶対にできない。しかし、かといって全部を自分のせいにすることも絶対にできない。そうやって過度に自分に原因を帰着しすぎるのはストイックで美しいかもしれないが、他者の責任能力を軽視しているという点で傲慢な考え方だと思う。「人のせいにしよう」というと聞こえは悪いが、適切な他者に適切に責任を求めるのは敬意ある行為だ。とにかく、炎上したプロジェクトばかりではなかったが、それでも確かに存在していた。

私が退職を決意したのは、最後の秋、退職の2ヶ月余り前だった。

ある朝、午前5時か6時ころ、私は洗面所で血を吐いた。その日はちょうど遠方への出張があり、私の自宅まで同僚が社用車で迎えにきてくれることになっていた。同僚が家に来る数分前のことだった。その出張はとても重要な会議への参加だった。私はそのまま社用車に乗って東京に出発した。血を吐いたことは誰にも言わなかった。色々なことがあって心身ともに参ってしまっていたのだと思う。実際、最後の数ヶ月は恒常的に体調が悪くて、病院にも掛かっていた。長期休職または退職のどちらかを考えていますと人事に相談したのはそれからしばらくのことだったが、正直自分のなかには一択しかなかった。

人事に相談してからすぐ面談があり、私は辞職の旨を告げた。最後の2ヶ月はハッキリ言って地獄だった。辞めると決まれば気持ちが楽になる、みたいなものはなかった。「逃げるのか」「お前のせいで会社がダメになる」と責められたが、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。これに対して反論するつもりはない。後日のミーティングで、その時にはもう心がいっぱいいっぱいだったし、何を言われてそうなってしまったのかはもう覚えていないが、私は「人のせいにするな」と怒声を上げ、泣きながら机を叩き、子供のように喚き散らしてしまった。こんな剣幕で怒声を上げたのは、プライベートも含めてその時が最初で最後だったと思う。同席してくれた同僚に謝るのが恥ずかしくて仕方なかった。

私はそれから退職の引き継ぎをしたかったのだが、退職の件自体を口止めされていて、社外のパートナーはもちろん社内のスタッフにも退職のことを表立って伝えることはできなかった。結局、退職の事実が社内で公表されたのは最終出勤週になってからのことであった。もちろん、口止めされているとはいえ引き継ぎをしないわけにもいかないので、水面下で立ち回るしかなかったし、このような難しい状況を理解し協力していただいた社員の方々には本当に感謝しかない。

そして、2016年12月を以て私は会社を退職した。

私は、私と「一緒に働きたい」と言ってくれるエンジニアが辞めていってしまうのが寂しくて、エンジニアが過ごしやすい環境を作りたいと思っていた。そのために行ってきた開発環境や制度の整備については既に述べたとおりである。それだけでなく、自分自身が最速で「10分の1」になることも目指して頑張っていた。つまり、自分が知るより10倍以上優れた技術は正確に評価できないのだから、他者を評価するときはその10分の1を自分が身につけていなければダメだ、という言説がずっと自分の行動指針の基底にあった。どこで得た情報だったかはもう忘れてしまった。技術をうまくアピールできずに過小・過大評価されて苦しむ人が周りに多かったので、その正当な評価をしたかったのだ。そのために色々な技術を勉強するようにしていた。そうした取り組みが果たしてうまくいったのか、うまくいかなかったのかは分からない。

だから、あるとき同僚に言われた「この技術を導入して自分に任せてもらえたこと、本当に感謝してます」という喜びの言葉は、本当に本当に嬉しかった。自分のやってきたことが少し報われた気がした。願わくば全員にこのような喜びを感じてもらいたかったが、それはどうやら叶わなかった。私は次の夢に向かって進むことにした。

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