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富士を知らなかった頃の自分にはもう戻れない【2014.01~2016.08 富士山】

2020年夏期シーズンにおける富士山全登山道の閉鎖が決定しました。

静岡県民にとっては、いつだってそこに当たり前のように在る山、富士山。ありふれた存在であったはずの富士山が、いまでは見かけるたびに何かを語りかけてくるかのような雄大な息吹を感じてしまいます。日本人が太古の昔より畏れ、敬い、憧れてきたあの山は、ただそこに在るだけなのに、どうしてこうも特別なのでしょうか。

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高校在学中、校内の正面階段からは大きな富士山が見えました。ふと目線を上げると、そこには富士山がある、それが学生時代の日常。ほかの山とさして大きさの変わらない綺麗な山。

静岡を出てから登山を始め、冬山への第一歩を富士山の見える山から始めました。大平山・平尾山という山中湖畔にそびえる好展望の山。天候は雪、富士急ハイランドに向かう賑やかな団体客に紛れて登山者が数人。期待するような展望は得られませんでしたが、初めてのアイゼンの感触や冷え切った空気、小さな挑戦なりの手応えと熱気に満たされていました。

帰り道も変わらず天気は悪かったけど、御殿場までのバスの道すがら、それはもうぶわっと、一気に雲が晴れ、とてつもなく大きな富士山が現れました。人生で見たもののなかで、間違いなく一番雄大なもの。海や大陸がみせる水平的な広がりとはまったく違う、垂直的な存在感。これも山なのか。

周囲の山から登り始め、少しずつ私のなかの気持ちを富士山に近づけました。大平山・平尾山、竜ヶ岳、愛鷹山と登り、よし、もう登っても良いんじゃないかな、どうですか富士山。

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91回目の登山にして初めての富士山。選んだルートは御殿場ルート。富士山の雄大さを最も感じることができると思い、迷いなく選びました。

午前3時出発の日帰り山行、霧雨の中の登山。望遠鏡は担がず、踏切にも行かないが、予報外れの雨はBUMPの歌詞通りでした。ただ泣き出しそうになることはなく、辺りはヘッドライトの光しかないほどの暗闇だというのに、ひたすら嬉しくてしょうがなかったです。たくさんの人が、時を同じくして山頂に向かって歩いている、それほどまでに人を惹きつける何かがある山。

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いつしか夜は明け、雲をも突き抜け。

ようやく山の全容が浮かび上がりました。

なんて大きな山。

なんて大きいんだろう。ただただ大きいことが、これほどまでに感動を呼べるものなのだろうか。

身体が教えてくれる空気の薄さ、風の肌触り、太陽の光、歩んできた道のりの長さと、先に待ち構えている道のりの長さ。身体が教えてくれる景色の雄大さ。身体が教えてくれる、富士山が身体のものさしの外側にあるということを。

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こんな荒々しい斜面にも植物は生える。こんなことすら知らないでいました。富士山のカルデラが、こんなにも生々しく爆発の跡を残していることも知りませんでした。いままで私が仰ぎ見てきた富士山に、これだけの人たちが登っていたとは、そしてこれだけの密かな感動の湧出が起きていたとは、まったく想像もしていませんでした。

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富士山の山頂然り、麓の山々然り、山麓の集落然り、至る所に名だたる神社が建立されているあたり、富士山という圧倒的な自然に対する人々の祈りの強さを垣間見ることができます。

今年は富士山に登ることができないけども、きっと大丈夫。

なぜなら登山道が何本塞がれようとも、富士山はそこに在り続けるから。

そこに在り続ける限り、人々は富士山に自分なりの物語を見つけ、富士山の雄大さに出会うことでしょう。過去の感動は決して色褪せることなく、何度でもまた語りかけてくることでしょう。

もう富士山を知らなかった頃の自分には戻れない。

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恋にも似たなにか深淵なる感情に名前はまだない。

コロナの影響による山小屋の窮状が心苦しいばかりですが、微力ながら山と渓谷社によるヤマゴヤエイド基金を紹介させていただきます。少しでも多くのご支援が集まれば、そして今後も貴重な山小屋文化が後世にまで残り、多くの登山者の感動の支えとなることを祈って、リンクを貼らせていただきます。

 登山者の安全と安心を提供する山小屋を、みんなで応援しよう! 「山小屋エイド基金」

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