Yu Sobukawa

曽布川です。大体いつも人文学。音楽、美術、映画、文学などの批評をしています。「社会実験…

Yu Sobukawa

曽布川です。大体いつも人文学。音楽、美術、映画、文学などの批評をしています。「社会実験室 踊り場」主催。演劇批評家・扇田昭彦先生に師事。お仕事の依頼などあれば、メールにてperusuke@hotmail.co.jp

最近の記事

我が隣人『ぜんぶ社会のせいだせいだ星人』

先日、わが社会実験室 踊り場による展示企画『ぜんぶ社会のせい』の感想画として、来場された方が描いてくれた作品『ぜんぶ社会のせいだのせいだ星人』。その批評文を書いてみました。以下本文です。 その宇宙人の特徴は、どれも地球人の中に見つけられるものである。目、指、襞、筋、血管、性器、誰か(何か)を何かの所為にすること。その宇宙人は他人ではない。彼は明らかにわたしたちの仲間である。しかし、わたしたちは、常に自分たちの外部を、すなわち、「宇宙人」を、あるいは、もはや倫理的に使われなく

    • 『ちびまる子ちゃん』には何が描かれているのか?

      少女漫画誌『りぼん』の1986年8月号から連載を開始した漫画『ちびまる子ちゃん』は、当時の漫画界の常識をぶち破る革命的な作品だった。 しかし、『ちびまる子ちゃん』には何が描かれ、なぜそれが革命的だったのか。同作は、「エッセイ漫画」の草分けと言われているが、そこに描かれているものは、明らかに作者自身の記憶の詳細な描写ではない。 同作は、作者の記憶に対する単なるデフォルメ以上のことが行われている。そのことは、作中の登場人物の顔の描き方に象徴されている。わたしが子供の頃、初めて

      • 女は女ではない

        ※これは、2021年9月25日に行われたジュディス・バトラー勉強会『女は女ではない』のために書いた短い論文です 女は女である。なぜなら女性器が「あり」、男性器が「ない」からだ。男は男である。なぜなら、男性器が「あり」、女性器が「ない」からだ。 この「ある」と「ない」を巡る命題。フェミニズム論者の怒りを常に掻き立て、ジェンダー/セックス論が打倒すべき二元論の旗印となっている一般的な存在論は、どのようにして己の妥当性を確かなものとしているのか(※1)。 「ある」は当然、同一性の

        • 踊り場宣言(縮小版)

          ※この宣言は、哲学/人文学に関する事業を展開する「社会実験室 踊り場」の発足発表に合わせて書かれたものです。完全版は、近日中に公開予定です。 踊り場(Landing)(※1)とは、階段の途中に設けられた平面/空間である。それは、階段の各段よりも確実に広く、小休止、方向転換、転落防止のために役立つ。階段の高さが4mを超えるごとに踊り場を設けることは、日本の建築基準法で義務付けられている。 踊り場は、明治時代に西洋からもたらされ、初めてそこを歩く着飾った人を見た当時の日本の人々

        我が隣人『ぜんぶ社会のせいだせいだ星人』

          workshop circus / 現表、現成、現出、原理のための試論

          #これは、2021年2月7日に静岡県浜松市で行われたイベント『workshop circus』の報告書として書かれたものです。 1 木材を見、手に取り、組み合わせる。体験者は、たとえ自覚的でないとしても、自らの受動性と能動性が、それぞれ明らかに異なる地平を持つことを感じているに違いない。その度、バラバラになる自我を統一する何かが、その間ずっと働き続けている。わたしたちが、いつも自分自身を同一的なものとして見つけ出すことができるのは驚くべきことだ。色を見、選び、塗る、削る。

          workshop circus / 現表、現成、現出、原理のための試論

          「彼は鏡を見ない」障害福祉施設で考えたこと(序)

          はじめに 新型コロナウィルスの発見がもたらした騒動が原因となり、わたしは8月で前の仕事を退職し、新しい職場で働き始めた。そこは、わたしにとって新鮮な出会いのたくさんある場となったのだが、その中でもとりわけ大きなものは、わたしがずっと考え、しかし、これまで決して出会うことのなかったような人たちとの出会いである。彼らは、所謂「障害者」と呼ばれるような人たちであった。このこと ー わたしが日々考え、その存在について夢想し、ときには理想的だとすら思えたような人たちとのそこでの出会い

          「彼は鏡を見ない」障害福祉施設で考えたこと(序)

          欲望と時間/俳句、ジョン・ケージ、ジャック・ケルアック

          私事ですが、欲望の主体(※1)によって人間を論じることに限界があるということに気付きました。新しい主体性の在り方、あるいは主体を必要としない存在論というものについて、ちょっと考えてみたいと思います。その前に、少しだけ欲望の主体についてお話をしましょう。 1 今日では、わたしたち人間の存在は欲望が規定するものと考えられています。現代社会において、わたしたちの自己同一性は、欲望がなければ規定できません。 それ故、わたしたちは幼少期から繰り返し「何が好きなのか?」「何がしたいの

          欲望と時間/俳句、ジョン・ケージ、ジャック・ケルアック

          比喩としてのコロナウィルス 〜感染症と可塑性〜

          日本語には、同音異義語というのがたくさんある。同音異義ということは、もし単体で漢字(※1)がなければ、その違いを区別することは出来ないということだ。それゆえ、あらゆる同音異義語は、それが話されるときに互いにその意味を反響し合う。それらの言葉は、かつて一つであったものが分裂した半身(半神※2)なのだ。 例えば、「良心」と「両親」、「激情」と「劇場」、「協会」と「教会」と「境界」などなど。 日常でも、「死」と「四」の繋がりは、多くの場面で意識されている。 「鼻」は、よく心理学で男

          比喩としてのコロナウィルス 〜感染症と可塑性〜

          恋愛映画としての『ミッドサマー』 〜わたしたちの恋愛は瀕死〜

          『ミッドサマー』には、わたしたちの常識にショックを与えるように意図された箇所がいくつか見られる。舞台設定に論理的な一貫性が見られるところから、製作者の捉えた一般的な倫理観からの逸脱を表現することが、製作者の意図なのではないかと推測できる(主人公の彼氏の名前はクリスチャン笑※1)。もちろん、それは演出として、物語にリアリティを与えることに一役買っている。 舞台となったスウェーデンの村は、独自の倫理によって支配されている。わたしたちの社会が採用している司法では、刑罰は罪を犯す人間

          恋愛映画としての『ミッドサマー』 〜わたしたちの恋愛は瀕死〜

          映画とは何だろう? (『ミッドサマー』を観ながら)

          仕事と私事に追われ、気がつけばこの4年間一度も映画を観ていなかった。先日、知人から『ミッドサマー』という映画を勧められ、久しぶりに映画を観に行こうという気になった。 そこでちょっと考えたこと。 以下本文です。 映画を観ること。それは現実において対象を見つめることに似ている。現実においても、わたしたちは、映画を観るときと同じように、対象を見つめながら、自身の内部における停滞と運動の契機を、それに投げかけている。対象は、当然止まったままではない。変化しないものは存在しない。対象

          映画とは何だろう? (『ミッドサマー』を観ながら)

          音楽を好きだということ(※末尾にオススメ音源有り)

          数年前、わたしは、音楽を作ったり演奏したりするのをやめ、音楽に関わる仕事も辞めた。それ以来、音楽を聴くことからも遠ざかっていたが、最近、同僚や知人の勧めもあって、また音楽を聴くようになった。 しかし、「音楽を聴くようになった」とは、どういうことだろうか。 音楽は、わたしたちの日常にひっきりなしに流れている。音楽を流していない商店はほとんどないし、音楽を聴かずに見られる映画やテレビ番組もほとんどない。聴きようによっては、電車や道路を走る車の列も、立派なビートを刻んでいる(そもそ

          音楽を好きだということ(※末尾にオススメ音源有り)

          ハイデガーとは誰なのか?

          ハイデガーは、ものごとを逆さにしてみせる。反転してみせる。手のひらを返す。こともなげにそうする。あるいは、彼は簡単に逆さにされる。順序を変えられる。その立場をころころと変えられる。例えば、彼の主著である『存在と時間』は、彼の思索の順序とは逆に構成されている。そして、そののちの講義『現象学の根本諸問題』では、同じテーマを今度はまたその逆さま、要するに思索の順序に従って、構成され直されている。彼の有名な講義集『技術への問い』は、彼による三つの講義が、時間軸を逆さにされて収録され、

          ハイデガーとは誰なのか?

          やなぎみわ展 鑑賞感想

          2020.2.18 静岡県立美術館 やなぎみわ展 マルセル・デュシャンは、「何の意味もないことだ」と繰り返し言ったらしい。やなぎみわの展示は、それに対する彼女なりの返答であるように思える。無であるにもかかわらず、そこから沸き立つ存在の気配。匂い、味、音、色。 やなぎも多くの人間的思考と同様に、存在を二つに分裂させることによって捉えているように思える。男と女、老いと若さ、生と死、光と闇、存在と無。「神話」とは、その二項対立的な思考法の起源を表現した物語でもある。そのよう

          やなぎみわ展 鑑賞感想

          「わたしは何をしたいのだろう?」アーティスト・松村かおり論

          先日、C C C(静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター)にて行われた、アーティスト・松村かおりさんの批評を書かせていただきました。 例えば、「あなたは将来何をしたいですか?」と聞かれる。 それに対し、①「人の役に立つような仕事をしたい」と答える。あるいは、②「人から尊敬されるようなことをしたい」、もしくは、③「世界中を見て回りたい」、または、④「宇宙飛行士になりたい」などと答える。 それらの答えは、「あなたは将来何をしたいですか?」というこの問いに対し、それを聞いた各

          「わたしは何をしたいのだろう?」アーティスト・松村かおり論

          バスキアと「視覚の政治学」(3)

          5例えば、バスキアが"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物の顔を書き、その横に"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット(Jersey Joe Walcott)と書き込む。それによって、キャンバスの上に、"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットという名前と同一性を持った人物を中心とした意味の場が開かれた、と言うことは出来るだろうか。答えは否である。なぜなら、彼が描いた"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物が"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットであることは、彼によっては曖

          バスキアと「視覚の政治学」(3)

          バスキアと「視覚の政治学」(2)

          2バスキアはよく黒人を、また黒人の有名人をモチーフとして選んだ。バスキアの生涯は、黒人の差別撤廃運動と時間的に並走している。それゆえ、彼の作品は、人種差別を批判する要素が強いと言われる。 例えば、黒人ボクサーを描いた作品『スネークに囲まれたジョー・ルイス(St.Joe Louis Surrounded by Snakes)1982』(下画像)はその代表だ。作中に、蛇(スネーク)は描かれていない。ボクサーであるジョー・ルイスを取り囲んでいるのは、彼のファイトマネーを搾取してい

          バスキアと「視覚の政治学」(2)