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世界は少しずつやさしくなっている(作品批評)

批評を書かせていただきました。先日まで鴨江アートセンターで行われていた「OPEN ART CLASS vol.10」で展示されていたアーティスト・中村菜月さんの新作『世界は少しずつやさしくなっている』についてです。
中村菜月さんは、浜松を中心に活動する「絵と言葉」のアーティストです。
今年の2月に行われた彼女の個展に、彼女の対話者として僕も参加しました。今回は、その際に感じた彼女の特異な感性の淵源を探ってみました。
以下本文です。

画家は、作品制作の過程において、いつもある葛藤を抱えている。それは、自分の内面(と呼ばれているもの)と、その外部との交通に関する問題である。
一見すると、アーティスト・中村菜月の新作は、彼女の想像力によって生み出されたもの、言わば彼女の空想的な世界を、画布の表面に写し出したもののように思える。それは純粋に観念的な創作だろう、と。しかし、その印象に反し、この作品は完全に唯物論的である。
言うまでもなく、絵画は、作品として提示され、その外部の一部になることによって、客観的なものとして認められている存在論的な領域にコミットする。要するに、作品は制作の過程を経て、現実的なものとして、世界の一部となる。その作品は、それが描かれる前までは、存在していなかった。存在していたのは、画布と絵の具、そして画家自身である。そのとき作品は、画家の内面に存在しているのだろうか。そうではない。作品は、画家がそれを描く以前には、どこにも存在していないのだ。画家は、制作をしながら、己の内面とその外部との関係に投機しながら、作品を作り上げていく。制作とは、作品という物質的対象と同時に、画家の内面を作っていく作業なのだ。画家の内面が作品を作るわけではない。逆に、作品がその外部との関係によって、画家の内面を決定するのである。作品とは、上部構造としての画家の下部構造にあたる。したがって、画家にとって、自身の作品の如何は、非常に重要な問題となる。
画家の内面と作品、そしてその外部との関係は、プレイヤーが駒を指すチェスの盤に喩えられよう。観念と対象との一対一対応が成立した無数の静的な「意味の駒」。画家はそれを「いかに動かすか」によって、自分が何者なのかをコントロールしようとする(M・デュシャンやR・ルーセルが、制作の代用としたものもまたチェスだった)。
しかし、制作におけるそういった性質に反し、多くの画家は、作品の制作によって、自身の作家としての同一性をただ反復/再生産しようとする。なぜなら、そうすれば、そのコントロールの過程がもたらすリスクを、最小限に抑えることが出来るからだ。そういった画家は、制作において、あたかもあらかじめ自分の内面に自分の作品があったかのように感じることが多いだろう。しかし、彼がそのように感じるのは、その作品が単に彼の過去のそれのコピーに過ぎないからだ。
すべての画家は制作のたびに、己の統一性を解体/再構成する機会に対峙しているが、それとどう向かい合うかは、完全に画家自身の恣意的な意思に委ねられる。
中村菜月の新作は、既存の内面を単に描写する閉じられた作品では決してない。「同じようなものを二度作りたくない」と語る彼女にとって、制作はいつも戦いである。それは言うなれば、ウィリアム・ギブスンと岡崎京子の言う「FLAT FIELD=平坦な戦場」における戦いなのだ。彼女にとって作品は、共時的なシニフィエ/シニフィアンの体系に揺らぎを生み出す投石である。
彼女は、自身のSNSアカウントを通して、この制作と、そこから生じる葛藤の過程を投稿している。
それによれば、この作品は、展示される直前まで、全く違う印象を与える作品だった。そのときそれを見つめていたのはそれを制作している彼女自身だけである。投稿された画像を見る限り、その作品は、これまでの彼女の画家としてアイデンティティに沿った自己同一的なものだったようだ。しかし、その作品は、彼女自身の言葉を借りて言えば、展示の数日前に、「夜のあっちに沈め」られた。ここから彼女の戦いは始まる。
投石によって撹拌された意味の体系を再構成する作業は、苦悩無しには行われ得ない。
繰り返すが、画家が取り組む「内面とその外部との交通」とは、単に「己の内面を作品に投影する」という意味ではない。「内面とその外部」は、物質と構造と生理によって支配された恣意的でありかつ強権的な認識空間である。画家が描くものは、一本の線から配色に至るまで、これらとの相互連関なしではあり得ない。なぜなら、これらの相互連関こそが、制作そのものだからだ。多くの画家が単に「自己同一的な作品の再生産を繰り返してしまう」のは、彼らが怠惰だからではなく、そうなるような強制力が働いているからである。中村菜月が戦いを挑むのは、まさにこの強制力に対してなのだ。
恐らく、彼女にとって制作とは、対象の同一性の連鎖によって紡がれたヒューム的なアイデンティティに亀裂を生じさせることであり、またそうでなければ、それは彼女から「制作」とは呼ばれることはないだろう。自足した象徴体系としての意味の場から抜け出した、シニフィアンを持たないシニフィエーそれはまるで幽霊であるーと共に制作をすること。

そうして完成された新作は、『世界は少しずつやさしくなっている』と名付けられた。タイトルの下には「それ以上の悲しみを越えて少しずつ。傷だらけになりながら」というキャプションが書かれている。
アーティスト・中村菜月が自身の自己同一性を危険に晒し、存在を賭けた戦いの末に獲得したもの、それは「世界」が「やさしくなっている」という実感だったのか。
その内側に犬が安らぐ透き通った水色の膜は、わずかに裂けている。膜の内側には町の一部があり、そこにはかすかな光がある。「その外部」にどこまでも続いているであろう町の全景は見えず、膜から遠ざかるほどに暗くなっているように見える。絵の全体は、「夜」の薄闇を思わせる青色に覆われている。しかし、それらのすべては、絵の世界の更にその「外部」から付けられた亀裂によって傷つけられている。その亀裂からは、この絵がもともと持っていた「昼」の色が露呈している。「夜」と「昼」。「昼」の町は、まさに「FLAT FIELD=平坦な戦場」だ。それを覆い隠すようにして静寂と平安をもたらした「夜」は、しかし、「外部」からの攻撃によってそれが束の間のものであることを告げられているようだ。戦いは終わっていない。それはまだまだ続いていくだろう。しかし、それでも、「世界は少しずつやさしくなっている」のである。

中村菜月は、絵の具を絵の具として、画布を画布として扱う。そこに幻想はない。彼女は、現実を塗り重ねて作品を制作する。それゆえ、彼女は絵を描くことを「全然好きじゃない」と語る。結果作り出される「幻想的」な世界は、その原材料のすべてを「現実」から調達しており、彼女もそのことを自覚している。
現実は、「内面」と「その外」の境い目を互いに乗り越えることによって、初めてその姿を現わす。「内面」が、「その外」と区別されるための道標が、対象の同一性の過去的な連鎖であるならば、画家はそれを呼び出すために、時間の円環と反復を避けるだろう。
新たな時間、新たな対象、未知の領域が、作品によって初めて認識の場に姿を現わすことによって、我々はそれを見ることができる。未だ概念ではないそれは、作品から目を離せば、ゆっくりと暗闇の中に消えていく。

作品は画家にとって、ある時間性、あるナラティブの、一つの終点である。作品には、画家が生きた一定の時間、現在によって区切られた事態の継起性が凝縮されており、その続きを持たない。画家の時間は前に進み、作品は徐々に遠ざかっていく。それはまた過去のものとなるだろう。
束の間の平安。安らかに眠る夜。しかし、それはいずれ終わるに違いない。
次の戦い。中村菜月の新しい制作が、また始まるのを期待して。


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