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戊辰戦争から生還した兵士たちが伝えた「白河踊り」(山口県萩市など)

文・大石始
証言:中原正男(『⽩河踊り 奥州⽩河からふるさとへ伝えた盆踊り』 著者)

 あるとき『白河踊り 奥州白河からふるさとへ伝えた盆踊り』(書肆侃侃房)という一冊の本を手に入れた。その本では山口県各地で白河踊りという盆踊りが行われていること、しかもヤットセ踊りやヤンセ踊りなど類似するものも含めれば、かなりの数の白河踊り系統の盆踊りが踊られていることが詳細に記されていた。
 では、「白河」とは何を意味しているのだろうか。山口県内に「白河」という土地があるわけでもなければ、実在の人物から付けられたわけでもない。なんと「白河」とは奥州白河(現在の福島県白河市)のことを指しており、驚くことに戊辰戦争の際、奥州白河に派兵された長州藩の兵士たちが戦の後に白河で覚えた盆踊りを故郷へと持ち帰り、それが現在まで受け継がれているというのだ。
 『白河踊り 奥州白河からふるさとへ伝えた盆踊り』が出版された2017年12月の段階で、山口県内で白河踊り系統の盆踊りを踊っている地区は82地区、現在は踊られていない(あるいは確認できなかった)地区が21地区。継承されている地域は萩、阿武町、山口、宇部、防府など広範囲に及ぶ。規模だけでいえば山口県を代表する盆踊りのひとつといえるが、知る人ぞ知る盆踊りの地位に収まっていることも意外といえば意外だ。

 その本で驚かされたのは、そうした白河踊りの背景だけではない。膨大なリサーチを行なったのが、研究者が入った大人数の調査チームなどではなく、萩市に住むたったひとりの男性だったということだ。白河踊りに関する先行研究は極めて少ない。そのため、著者である中原正男さんは地道なリサーチを続け、前人未到の一冊を書き上げてしまったのだ。その熱意には恐れ入るばかりである。そんな中原さんに話を伺うため、冬の萩を訪れた。

 日本海に面した山口県北部萩市は、文久2年(1863年)に周防山口へと藩庁が移るまで長州藩の中心地であり、幕末には薩摩藩とともに討幕運動を牽引した歴史ある土地だ。萩を訪れたのは初めてのことだったが、街並みには城下町らしい風格があり、名所旧跡が点在している。思わず寄り道したくなってしまうが、今回は中原さんにお話を伺うのが旅の目的だ。誘惑を断ち切ってご自宅のチャイムを鳴らすと、中原さんが我々を迎え入れてくれた。
 2021年12月、時刻は昼過ぎ。日本海から吹き抜ける強風がガラス窓を激しく揺らしている。温かいコーヒーをすすりながら、中原さんのご自宅で白河踊りを巡るインタヴューが始まった。
「私が20代初めのころ、ここから15キロぐらいの隣町で、戊辰戦争に行ったときに向こうで習った踊りを踊っているという話を聞いたことがあったんですよ。私の地域でも昔は盆踊りをやっていたのですが、炭坑節なんかを踊るようなもので、白河踊りのことは知らなかった。『戦争に行って盆踊りを習ってくる? どういうことやろな』と思っていました。

 それから数十年経った後に、別のことを調べに萩市内の佐々並という山間部に行ったんです。そこで『うちの盆踊りは白河踊りです』という話を聞きました。しかも佐々並だけじゃなく、あそこにもあそこにもある、と。それで気になって調べ始めたのが最初ですね」
 戊辰戦争の戦局において影響を与えた「白河口の戦い」が繰り広げられたのは慶応4年(1868年)4月から7月のことである。仙台藩や会津藩ら奥羽越列藩同盟による旧幕府軍と、薩摩藩や長州藩らによる新政府軍の戦いは約100日ものあいだ続き、両軍合わせて1,000名以上の死者を出した。
 血で血を洗う戦いのあと、白河に駐留していた長州藩や大垣藩の兵士たちは、地元住民たちが踊る盆踊りを目の当たりにすることになる。福島は現在も盆踊りが盛んな土地。戦で疲れ切った兵士たちの目に、故郷から遠く離れた白河の盆踊りは色鮮やかに映ったことだろう。
「白河口の戦いのときは薩長が攻めてくるのが事前にわかっていたので、地元の人たちはみんな隣村や山中に逃げていたらしいんですよ。戦争が終わったあと、彼らは地元に帰ってきて会場の片付けや備品の準備、踊りの練習をやっていたんでしょうね。踊りの輪に長州の若い兵隊が入っていったようです」
 盆踊りとは本来、コミュニティーにおける娯楽であると同時に、死者を供養する儀式という一面も持つ。白河の住民たちはもちろん、踊りの輪に加わった兵士たちのなかにも死者たちに対する供養の念があったことは間違いない。
「自分の仲間も死んでるし、敵も死んでいる。当然彼らのなかにも供養の意識はあったと思います。ただ、地元の人たちにしてみたら迷惑な話ですよね。自分たちの街をぐちゃぐちゃにした兵士が踊りの輪に入ってきたわけですから。ただ、死んでしまえば、敵も味方も関係ない、みな仏ということで受け入れたんじゃないやろか。私はそう思います」

 ところで、長州藩の兵士たちはなぜ白河の盆踊りを地元に持ち帰ったのだろうか。山口県内の旧家では戊辰戦争の際、各地で戦った兵士たちが(おそらく戦利品として)持ち帰った日本刀が見つかることがあるらしいが、同じ感覚だったのだろうか?
「彼らはいわば生きて帰った英雄ですよね。それも戊辰戦争だけじゃなく、その前に四境戦争もあれば、馬関戦争もあった。それらを戦い抜いて帰ったわけで、本来であれば英雄として扱われるべき存在だったと思います。
 ところが日本政府は日本国常備軍創設を決定し、各藩に軍隊があるのは好ましくないということで、各藩に軍隊の解散命令を出すわけです。彼らは長州藩の正規兵だったわけですが、それにもかかわらず、ひどいめに合わされる。盆踊りにもそういう状況に対する思いが込められていたと思うんですよ」
 英雄として迎えられるはずが、長州藩の兵士たちは軍の上層部から冷遇された。彼らにとって白河踊りとは「我々は奥州で戦ってきたのだ」という帰還兵としてのプライドを示すものでもあったのだろう。そうやって考えてみると、彼らがどのような思いで白河踊りを踊っていたのか、心中を察するに余りある。

 冒頭で書いたように、山口県内には白河踊りと歌詞もメロディーも一緒ではあるものの、別の名を持つ盆踊りも存在している。その理由を中原さんはこう推測する。
「白河から戻ってきた長州藩の兵士は約100人しかおらんのに、かつて踊られていた地区と現在踊られている地区を足すと、全部で120以上になるんです。勘定が合わん。つまり、白河から戻ってきた人のいる地区からまた別の地区に持ち込まれたケースもあったはずで、どこがオリジナルか分からないんですよね」
 ひとつの例を挙げよう。長州藩の海の玄関口であった三田尻港(現在の防府市)はかつて播磨国赤穂に次ぐ国内第2位の製塩地であった。そこでは浜子と呼ばれる塩田作業員たちが汗水を流していて、彼らは労働のなかで作業歌を歌っていた。中原さんによると、そうした作業歌が白河踊りと融合した「ヤンセ踊り」が現存するという。塩田に出稼ぎにきていた人々がこのヤンセ踊りを地元に持ち帰った例もあるそうで、現在も14、5箇所ほどの地区でヤンセ踊りを踊っている。そのように白河踊りは各地域のローカル文化と混ざり合いながら変容してきたわけだ。
 また、中原さんによると「一種のカモフラージュ」として他の盆踊りの名前がつけられるケースもあったらしい。
「大正時代、ある地域では各町内で白河踊りが踊られ、櫓の高さや太鼓の大きさなどでいちゃもんを付け合い、若者同士の喧嘩が多発したそうなんですよ。そのため、白河踊りは禁止されたんです。若者たちはそれでも白河踊りをやめられなかった。警察が『まだ白河踊りをやってるのか』と取り締まりにいくと、若者たちは『いや、これは白河踊りじゃないです。ヤンセ踊りです』と言い訳して警察の目をごまかした。白河踊りの歌い始めの『ヤレサー』という言葉を『ヤンセー』に変えただけで。つまり、白河踊りもヤンセ踊りも同じものなんですよ」
 白河踊りを巡るストーリーは山口~福島だけに留まるものではない。戊辰戦争の際には長州藩とともに大垣藩からも30、40名ほどの兵隊が白河に駐留したが、彼らは長州藩と同じように地元に白河踊りを持ち帰った。そのため、現在岐阜でも白川踊りという踊りが踊られている。

 また、中原さんが調べたところによると、ヤンセ踊りは鹿児島県枕崎市でも踊られている(駒水ヤンセ踊り)。現地の関係者に問い合わせたところ、「ヤンセ踊りは沖縄からやってきたものです」という回答を得たという。三田尻港は海路で各地と繋がっており、鹿児島やさらに南方の島々と文化的交流があっても何も不思議ではない。中原さんも「ヤンセ踊りという曲が当時伝わっていて、曲名だけを代用したのかもしれませんね」と話す。
 重要なのは、白河踊りの故郷である福島県白河市でも白河踊りが大々的に踊られているということだ。白河の住民と長州藩や大垣藩の兵士たちが盆踊りを通じて交流してから150年以上。それだけの年月が経てば、歌も踊りも大きく変容しているはずだ。
「必ずしも現在白河で踊られているものが原型というわけではないと思うんです。ひょっとしたら岐阜のものが一番原型に近いのかもしれないし、白河が一番変わっているのかもしれない。もはやそれは誰もわからない。どこが原型かもわからんのですよ」
 白河踊りは奥州白河の地で生まれながら、細胞分裂のように各地で変化を続けてきた。そこには各地域固有の物語と人々の営みが刻み込まれている。

 中原さんの調査の仕方は直接現地を訪れ、ひとりひとり話を聞いて回るという地道なスタイルだ。「私ひとりで地域に行って『おたくの地域のこういうことを調べたいんです』というメモをポストに投函したこともありました」というのだから、執念ともいうべきフィールドワークを続けてきたわけだ。そこには「忘れ去られつつある郷土の文化を記録しておきたい」という中原さんの郷土愛もあったのだろうし、白河踊りを巡るストーリー自体に中原さんが魅力を感じていたということもあるのだろう。
 中原さんが白河踊りの調査を本格的に始めたのは2007年のことだったが、そのころにはすでに白河踊りの過去の歴史について知る世代も少なくなっていたという。
「以前は詳しい人がおられたんだけど、その人が亡くなられたから何もわかりませんという地域も数カ所ありましたね。
 残っている地域と残らなかった地域の違い? そうですねえ……行政が関わっているか関わっていないかは大きいと思います。私が初めて白河踊りのことについて話を聞いた佐々並は行政の人が真面目で、白河踊りの陣頭指揮をとっていたんですよ。昭和30年代には当時の村長さんとそのスタッフが福島の白河に行ったこともあって、今でも白河踊りが踊られています」
 佐々並のように踊りの伝承について熱心なところがあれば、行政自体が無関心で、ごくわずかな住民の熱意によって辛うじて支えられている地区もある。そうした意味でいえば、白河踊りは中原さんという熱心なリサーチャーがいて幸福だったともいえる。中原さんは単独でひとつひとつの地区を回り、各地の踊りを丹念に採譜し、さらにはテンポを示すBPMまで計測しているのだ。もはや郷土史家の作業ではない。
「私は中学高校とブラスバンドをやっていたので多少採譜ができるんですよ。おじいちゃんおばあちゃんの歌のテープをイヤフォンで聞きつつ、パソコン上で作った譜面を同時に演奏させながら微調整していきました。大変でしたよ。おじいさん3人に歌ってもらうと、3人とも違ったりしますからね。誰が正解かわからない(笑)」
 昼間は仕事をしながら、夜になって取材の成果を整理し、歌を音符に起こす。貴重な休日も調査にあてた。そうやって地域の物語を記録してきた中原さんの存在は、地域の宝ともいえる。

 2008年、中原さんは福島の白河踊りに詳しい「A氏」という白河市の名士を紹介され、情報交換を行うようになる。その出会いがきっかけとなって萩市の行政が動くこととなり、明治維新から140年目となる2009年には白河の人々を萩へと迎える白河踊りレセプションが開催。翌年には中原さんが白河を訪問し、地元関係者からの歓待を受けた。その際、中原さんは盆踊りの櫓の上に上がり言葉を求められたほか、本場の白河踊りも踊ったという。
「(戊辰戦争の恨みを買って)石を投げられるんじゃないかと思っていたんですよ(笑)。でも、櫓の上からそんな話をしたら、会場のみなさんがどっと笑ってくれましてね。ほっとしました」

 戊辰戦争の直後、長州藩の兵士たちが福島から山口へと盆踊り文化を持ち帰ってから140年後、中原さんを通じて白河の盆踊り文化は里帰りを果たすことになった。福島で白河踊りの研究をされている「A氏」とは手紙や電話などを交わす関係となり、2013年に送られてきた手紙には「まさか長州の人とこんなに親しくなれるとは思ってもいなかった。長州へのわだかまりは解けたと思っています」と書かれていたという。ふたりの盆踊り研究家と盆踊り文化を通じ、白河と萩のあいだにあった遺恨は晴れることになったのだ(少なくともA氏のなかでは)。このように地域の歴史とはいつも熱意ある個人の動きによって形作られ、語られていくのだろう。
「歌い手がいなくなればその地域の盆踊りは終わってしまうんだろうけど、せっかくこういう歴史があるんだから、なくなったらもったいない。『昔はこういうのがあったよ』と地元の人たちに語り継いでいかれたらいいと思うし、一端なくなったところで最近になって復活されたところも1か所あるんですよ。あらためて始めようと計画している地区も複数ありますね。そうやって盆踊りが今も続いているところは、どこも熱心な方がおられる。ひとりではどうしようもならんけど、一緒に動くグループがいて、その人たちが確実に守っておられる。そういうところは長く続きますよね」
 150年もの歴史を考えれば、コロナウイルスの感染拡大で数年盆踊りが途絶えたところで大した話ではないだろう。山口には盆踊りを巡る壮大なストーリーが現在も受け継がれているのだ。

*本稿の取材は2021年10月から12月にかけて開催された山口ゆめ回廊博覧会『ゆめはくアート巡回プロジェクト』の一環として実施され、BEPPU PROJECTのウェブサイトに掲載された記事を転載したものです。

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