心は風船でできている

まず、昨日はもう……ね……。やりようはいくらでもあっただろうに。
こういうので甘えてしまうのが自分の弱いところである。しっかりと反省したいものだ。

さて、とはいえ今日も今日とて、である。
というのも、ちょっと自分の心に良くも悪くも大きめの影響を与えるインシデントがあって、本日の自分は非常に腑抜けている。詳細は割愛するが、今日の自分はこの状態について思うこと、程度しか文章を書ける気がしないのだ。
noteに限った話で言えばある意味いつも通りというかそれでいいのだが、創作に関してはそうはいかない。
書き進めていた小説も、生まれていたキャラクターの記述も、(昨日と)今日はストップ。何を書いたとて、きっと書き始めた自分が欲しいものは見いだせないだろうから。

要は自分の中に自分だけがいっぱいになってしまって、箱庭宇宙もそこにあるものもそこの住人も、引き出しのすぐ取り出せる場所から追い立てられてしまうのだ。それでもすぐ取り出さなければならない状況に直面したら、自分の記憶を頼りに必死で模倣したものをお出ししなければならない。たとえその時たまたま上手く行ったとしても、創作者という意味ではこれ以上ない屈辱だ。

結局どこまでいっても人間的すぎるのだろう、自分は。とはいえ「自分が苦しむことこそ、この世の絶対正義」を公言している身としては、これで正しく存在できているのかもしれない。
ん?この表現、なんか語弊がある気がするな。
苦労は買ってでもしろ的な思想の、勤勉な人間であるという誤解を与えてしまいそうな気がする。
違う、違うんだ。なんかうまく言えないけれど、こう、「悪人は裁かれるべきである」的な摂理と同じように、「自分は苦しむべきである」みたいな感覚が存在するというか……苦しむことが自分のアイデンティティというか……うーん、どうしても本質的なところが上手く表現できない。難しいものだ。
とりあえず言っておくと勤勉だとか真面目だとかそういう意識の高さからのソレではない。
ちなみに続きを言うとするなら、「できるだけ最大多数の、自分の好きな人々は幸福であるべきである」だろうか。

閑話休題。

まあ、要するにもう少し自分に、自分の感情に対してドライになれよという話だ。
そうでなければ、自分の欲しいものには永遠に手が届かない。気がする。
この表現もなんか違和感あるな。
正しくは「自分の欲しい」かつ、「実現可能である」かつ、「ただただ自分のための欲望である」もの、だろうか。
しかし、欲しいものについても自分の感情についても、割り切れないのが自分である。この割り切りを漠然と「大人になる」と言っている節があるが、多少なりとも子供から抜け出さないと、欲しいものの高さには到底届かないという点で繋がってしまった。そんなことを考えてしまうあたりタッパの足りないまま変に大人になってしまった感があるのがまた辛い。
大人になりたくないよ〜〜〜〜〜〜〜!!!
でもちゃんと大人にならないと手を伸ばせないものがあるよ〜〜〜〜〜〜〜!!!

とりあえず、明日には確実に腑抜けた心にマジビンタをかまして、それをちゃんと清濁併せ呑んで糧とできるようにするところから始めようとは思っている。自身をやればできる子と信じてあげるのに、自分以外誰がいるんだという話である。
え、「やればできる」の「やる」について……?自分はちょっと知識不足で教えられないんで頑張って探してもらって……。頑張れ自分。

書いてても読み返してても思うけど多分これ自分以外にはなんも伝わらない文章になってるんだろうな……あらゆる話の説明全部すっ飛ばしてるし……
ま、自分のこと話してる時のnoteなんて、きっといつもそんなもんだ。
こういう話ならまだまだ書けそうな気はするが、自分の中の、他人として文章を見る自分がクソ怪文書判定を出しているので流石にここまでにしておこう。

いつか自分が苦しむのは当たり前、ってとこから抜け出せる日は来るのかな。
抜け出せたら、ちゃんと幸せを掴めるかな。

拜拜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?