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浦賀日誌(十一) 鳴神と昭南

鳴神と昭南

京急電鉄の駅名には、その一部にかつて大日本帝国が攻略して命名した外国の地名がついていた。浦賀からちょっと遠い散歩道の範囲内に、京急電鉄の新大津駅、北久里浜駅がある。新大津は地理的に京急大津と隣り合っているが、それぞれ京急本線と久里浜線に別れて属しているため、電車で移動することはできない。京急大津と新大津のちょうど中間あたりには大津諏訪神社があり、数年に一度、長野県の総社の応援を得て「建御柱」(たておんばしら)が挙行される。そこから数百メートルほど京急大津駅よりには楢崎龍(ならさき りょう)、すなわち坂本龍馬の妻が眠る信楽寺がある。

大津諏訪神社「建御柱祭」(たておんばしら)

戦時体制にあった一九三八(昭和十三)年、鉄道・バスの整理統合を目的とした陸上交通事業調整法が施行され、民営の郊外電車やバスは東京横浜電鉄、武蔵野鉄道、東武鉄道、京成電気鉄道の四グループに統合された。五島慶太(東京横浜電鉄社長)は一九四二(昭和十七)年五月、東京横浜電鉄と京浜電気鉄道、小田急電鉄の三社を合併して東京急行電鉄を発足させた。これに加えて、城南乗合自動車、梅森蒲田自動車を統合し、相模鉄道の運営を受託して、一九四四(昭和十九)年に京王電気鉄道を合併し、「大東急」体制を成立させる。戦後の一九四八(昭和二十三)年六月、京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄が東京急行電鉄から分離独立し、「大東急」時代が終焉した。現在の京急電鉄は、このときに新生した〔矢嶋秀一『京急電鉄各駅停車』(洋泉社、二〇一五年)参照〕。

新大津(旧鳴神)駅

京急電鉄の新大津駅は一九四二(昭和十七)年、久里浜線(当時は東京急行電鉄=大東急)の開通にともない、地元と横須賀高等女学校の要請により鳴神駅として開業した。三浦半島の内奥を走る国鉄横須賀線から遠く、鉄道駅の新設は地元民に歓迎されたにちがいない。一九四八(昭和二十三)年六月、東京急行電鉄から京急電鉄として独立した際、現在の新大津に改称された。

北久里浜駅

隣の北久里浜駅もおなじく久里浜線の開通で一九四二年に昭南駅として開業し、戦後の一九四八(昭和二十三)年、地元の地名にちなんだ湘南井田駅に改称され、一九六三(昭和三十八)年、現在の北久里浜駅の名称に落ちついた。京急電鉄はこの付近から衣笠と久里浜を結ぶ横須賀線と並行して走っており、両鉄道のあいだを平作川が流れ、そのまま東京湾に注いでいる。


平作川(久里浜付近)

新大津駅の旧称「鳴神」は、一九四二(昭和十七)年に大日本帝国海軍が攻略した初の米国領土、キスカ島の日本名だ。北久里浜駅の旧称である「昭南」も、おなじく一九四二(昭和十七)年に日本が攻略した英国領土、シンガポールの日本名であることはよく知られる。帝都と横須賀鎮守府を結ぶ大船~横須賀間(横須賀線)が開通したのは一八八九年(明治二十二)年六月のことで、それが久里浜まで延伸したのは一九四四(昭和十九)年四月だった。戦時中、帝国海軍の施設があった久里浜まで鉄路を延伸したのは京急電鉄が国鉄よりも二年早かったが、横須賀までの軍事物資の輸送は国鉄が主流で、京急電鉄は新設の二駅に帝国海軍の軍果としての「鳴神」と「昭南」の名称をつけることで、海軍当局の覚えをよくする効果を期待したものと思われる。深夜の仕事帰り、疲労で眠りこけ、堀の内駅で久里浜線から本線に乗り換えるのを逸っし、隣の新大津、あるいは北久里浜まで乗り過ごすことが多く、そのときに親しんだ両駅の名称の変遷をメモとし、ここに記しておくことにした。

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