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でち読書「輪廻転生<私>をつなぐ生まれ変わりの物語」

ひょんなことから


専門家の方に個人講義をしてもらえるサービスのモニターとして、自分の興味に一番近い分野の講師の方に、日頃抱いていた疑問をぶつけることにした。

テーマを「輪廻転生について」として提示していただいたのが上記の本、当初は「輪廻転生を考える 死生学のかなたへ」という本の予定だったが絶版で講義日に間に合わなかった(でも買ったには買った)

整理されたレジュメが事前に用意されており、課題図書も読まなくてもいいと言われていたが、そんなわけにはいかないぜ!という気概の元、自分でも買って、仕事や子守りのスキマ時間であらかた読破できた。「忙しくても、本を読む気がありゃなんとでもなる」とわかっただけでも大収穫かもしれない。

輪廻転生の種類

輪廻転生概念にも大きくわけて3つの種類がある、再生型・輪廻型・リインカーネーション型だ。

再生型は土着信仰に多く、自然の成り行きとして人間が再生するというもの。輪廻型はインド仏教を中心に、最終的には生まれ変わらないこと(解脱)を目指すというもの。リインカーネーションは近代になってから、降霊術や前世の記憶をもった子どもたちについての大規模な調査などによって確立されてきたもの。

それらについて、分類と解説されていたものを読むことができたのは本当によかった。なんとなくぼんやりと生まれ変わりについてイメージしていたものが、はっきりとした。

この自分の感覚には、日本における輪廻転生の考え方が、上記3つを混在させてぼんやりしている(柳田国男いわく、当時は再生型と輪廻型が「曙染のようにぼかして居た」)ということも背景にあったかもしれない。

仏教の「侵入を防ぐ」

本の内容で一番面白かったのは、この日本の輪廻転生において、柳田国男が土着の風習について語っていたことだった。

古くからの再生型信仰と、仏教の輪廻型信仰には、相反するところがあり、たとえば「亡くなった児がすぐまた同じ家に生まれてくる」ことを願う時には、仏教の考え方は邪魔になってくる。

その場合どうするかというと、遺体の口に魚介を噛ませて埋葬するのだという。これはなぜか?仏教では魚介などの「なまぐさもの」を忌避するからである。これで仏教の影響が及ぶことを阻止して、旧来の再生を可能にするという…

な、なんだそのカードゲーム的発想!というかルールのハッキングは!?

つまり前提として「そのように信じれば、そのようになる」という、これもまた信仰があるわけだ。このことについて、講師の人にも質問をしてみた。

「これは宗教自体が『信じればそうなる』という前提をもっているということでしょうか?」

宗教それぞれ

そのお返事は「宗教による」というものだった。反例としてキリスト教があげられる。

キリスト教では、誰がどのように信じたり考えたりしようとも、世界のあり方や人間の結末は決定されている。と考える。だからこそ、それを「知らせる(宣教)」することが超重要になっているという。なるほど〜

一番訊きたかったこと

勢い余って自分が一番訊きたかったことを質問してみた。

今回の課題図書を通じて、世界の輪廻転生の類型がわかった。しかし、これらの考え方が全て、時系列であるのはなぜか?たとえば過去に生まれ変わる可能性、あるいはそのような前世の記憶を語る幼児がいてもよいと思う。もっといえば、同時代的に前世に存在する(俺が死んだら俺の父になるなど)ことも人智を超えた世界のあり方として可能であるにも関わらず、それがまったくといっていいほど語られていないことについてどう思うか?

たとえば「来世の功徳を積む」といって、権力者がお寺を建立させられたりするのであるが、その建立は、同時代の庶民に仕事と富の再分配を行うことでもあるので、今世の功徳を積んでいることになる。

その時、権力者の来世が、今世のお寺建立に携わる人夫であるならば、後の世のことを考えずとも、功徳を積むことが成立する。

というかまあ、証明できる部類の話ではないので、さっきの「信じたらそのようになる」の話ではないけれど、このように考えることが、俗世的なメリットを生む、という発想が、少なくとも一般的になっていないのはなぜか?という疑問があった。

その回答は既に自分の中に一つあって、「わかりづらい」ということである。たとえばどんな人間も一度だけ「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土まちがいなし、とする教義には、学も教養も要らない。そしてその一念を信じること自体が、現世において一揆を起こすような強大な力を生み出すことにつながる。

講師の方の解答は、その考え方は、たしかに世界の宗教にはみられない。ただし、哲学の分野にある「可能世界論」に近い。あ〜そうかも

もっと言うとですね、同時代的な輪廻転生が可能ならば、単一の主体が、網羅的に全ての意識存在を、1枚ずつのレコードに針を落とすように、順番に体験している、という仮説も立てることができる。これは意識のハードプロブレムについても言い表せる一つの表現なのではないか?みたいなことまで言ってしまった。

我に返って脱線すみませんと謝ったが、大丈夫ですよと言われてホッとした(こうして文字に起こすと、自分は結構ヤバい奴だな…)

おわりに

ともかく、こうして機会に恵まれたことによって、読書の中で一番スイーツな領域「気にはなっていないことはないけど、いまいち手が伸びない」を読むことができて本当によかった。

できることなら、チャンスに甘えずに自主的に本を読み、アウトプットできればいいのだけど、とかく読書力が無いので、また専門家の方の力を借りることができればいいなと思う。サービスが正式にリリースされたら普通に月1ペースで使うつもりでいる。

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