でち日報2024/04/17

不調の後の異様な精神の昂ぶりによって、逆に日報が書けないくらい活動的になっていた。スラムに長文をしたため、読みにくい本を読み、対談イベントの録画を消化して、映画を2本観た。

こんなものは春の陽気に中てられただけだとわかっている。いつでもこれくらいの元気があればいいのだけど

相変わらず、誰にでも見えるところには書きづらいことばかりを考えている。機密情報に限らず、経緯の説明がないと極めて誤解を招きやすいトピックなどが多い。そもそもが、多くの人に読んでもらえるように書くことに向いていないということもある。

さらに、説明行為そのものが損なうものについて意識が強くなってきた。すると何も言わず、何を考えているか、何をしているのかもわからない謎のおじさんが完成するのである。

でちおは低体重出生だったのが、1歳半でなんとか個体差の範疇まで追い上げてきた。言語性は低いものの意思の力はハッキリとしすぎるくらいハッキリしており、今のところ特別な不安がないので有り難い。


教養について考えていた。これについては書いても大丈夫だろう。

それを知っていると、特別な人たちとの会話に本質的に参加できるもの。または、特定の分野で活動するためには、当然クリアしていなければいけない量を求められるもの。

そういった文脈で教養が語られることに、違和感を感じる。それは、教養の運用についての話であって、そうした目的的運用をたしなめることが、教養のもつ本来的な要素のひとつではなかったか。

この違和感は、企業内哲学者と呼ばれる役職にも感じる。企業「内」で運用が可能な哲学とは、なんとまあ従順で礼儀正しい哲学だろうか?

歴史の試練に耐えるということは、意味の淘汰にも当然耐えてきたということだ。そうした見た目以上に不気味で危険なものをつかって、そもそもの有用性や価値といった、いわば「意味ごとき」を破壊して、そこに取り返しのつかない状況を生み出せなくてどうするんだと思ってしまう。

俺は自分が「周りの人から力を吸い取り退屈させる、つまらない人間」に分類されることを痛いほど知っている。教養や哲学を取り扱う人には、どうかそんな程度の低いやつに、こんな浅いレベルの指摘をされないでほしいと、皮肉でなく祈っている。


なんか、こういう調子になってしまうので良くないんだよな。攻撃色というか、いたずらに人を傷つけそうな気がして公にしづらい話題が多い。

脳が活性化すると当然仕事が手につかなくなり、色々滞っているので、いましばらくは黙って作業を進めていくのがいいのだろう


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