でち日報2024/04/07

もしかして、とにかく回復するべきなのか?と思って土日はあえて午前中寝て過ごした。でちおにも長めに昼寝してもらって、かつ奥さんが相手してくれて、やっと何というか、脳が通常の状態に戻った気がする。この感覚は3月初め以来だ。

仕事は滞っているが、そもそも時間があるのに仕事が滞っていたのが問題なので、大勢に影響なし。自分にとって悪夢を見るということは、もう睡眠は十分だという証なので分かりやすい。

毎週ではなくてもよいが、基本的に仕事の外部連絡がない土日の午前をオフにしよう。


何事につけても、一定以上のレベルに達することができない人間として、贈り物の実践は、残された(あるいは隠された)最後の道であるといえる。

自分自身が何をできるのか?は、価値の直接的提供においては問われない。金銭や物品を介することによって、属人性を洗浄している。

それでいて、勝手に贈りたい人たちを選ぶだけなので、ハーブ&ドロシーのような審美眼を求められることもない。

というか、比べるのも失礼かもしれないが、ハーブ&ドロシーの、とりわけハーブの態度を今思い返すと、そこには自分の贈与観の源流があるかもしれない。

彼らの活動は美術品の蒐集なので、贈与とは重なり合わない領域も多いけれど、せっかく購入した作品を小さな自宅に積み上げておいて、とりたてて設置・鑑賞しない。ペットのネコや魚の方が頻繁に鑑賞されている。

また、その当然の結果として保存状況が悪くなった作品群を、然るべき美術館に分散して保管することを認めたがらないという心情。それはおそらく、コレクション行為にフォーカスしたあり方だったのではないかと思う。


ハーブ&ドロシーの活動に触れたのは、贈与論を読む以前のことだった。このことを随分と長いこと忘れていたな。でも、何の話だったっけ、

そうだ。贈り物(行為は行為である時点で、「贈与」と呼ぶことが厳密には難しくなるので、柔らかい表現を選ぶ)は、何者にもなれない人間にも可能な価値提供であるという話だった。その中でさらに、操作可能な価値提供に分類されるとも言える。

もう一つ大きな括りとして、実践すること、行為することが、属人性を問わない場面があるという要素もある。いや、えーと、行為や実践がその人となりと能力を問わないはずがないのだから…言い方が悪いな。

その人がどんな人なのか、何ができるのか、を問わない種類の行為と、その実践がある。そしてこれは、貨幣と商品に関わる洗浄(wash)作用である。

物霊を想定することは、その逆に位置する。与えた人の分霊が宿っているならば、その人が何者であるのかは無視しがたい情報である。あるいは、分霊を帯びすぎて、個別の属性が無化されるという効果が貨幣にはあるか?(レヴィ・ストロースに怒られそうな問い立てだ)

いや、これはちょっと2つのものを混同していて、その人が何者であるのか(酋長とか)と、その人が何ができるか(自分で狩りをした獲物・作った道具)とは、階層が違うのではないか?いやいや、そもそもその人が何者であるのかは、その人が何ができるかに基づくのではなかったか?


全然こんなことを考えている場合ではないのである。ともかく、仮にこれを贈与洗浄gift washとでも呼んでおいて、「誰からもらっても嬉しい」とは何か?ということを、ぼんやりと考えながら仕事をしていこう。


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