おつやの方は何故殺されなければならなかったのか?

おつやの方は我等が弾正忠・信長公の叔母である。
一説によると、叔母とは言え信長公よりも年下で、かなりの美女であったらしい。

おつやの方は斎藤家との政略結婚で、斎藤家重臣・日比野清実に嫁ぐ。
1561年、桶狭間の合戦の翌年、美濃の斉藤義龍が病死すると、そのわずか2日後、電光石火の素早さで我等が信長公は美濃へ進出する。(森部の戦い)
この戦では、織田家出禁になっていた前田利家が勝手に参戦し八面六臂の大活躍の挙句、日比野清実の家臣の猛将・首取り足立と恐れられた足立六兵衛を討ち取り、清実も討死し、清実の居城である結城も落城してしまう。
利家は、この活躍により出禁を解かれるものの、そのおかげでおつやの方は未亡人になってしまう。

その後おつやの方は、政略結婚第二弾として、東美濃の遠山景任に嫁ぐ。
1572年、景任は子供が無いまま病死したため、信長公は息子の御坊丸を岩村遠山氏の後継として送り込み、おつやの方を、事実上の岩村城主とした。
子供に恵まれなかったおつやの方は、まだ幼かった御坊丸を我が子の様に可愛がったという。

が、しかし同年、武田信玄が西上作戦を開始し、信玄は遠江へ出陣、家臣の秋山虎繁がおつやの方の岩村城を取り囲んだ。
おつやの方は城主として采配を振るい、籠城して信長公の救援を待つも、当時信長公は第二次信長包囲網の真っ只中で、動くに動けない状況であった。
救援が望めない絶望的な状況の中、おつやの方は幼い御坊丸の命だけは何としても助けたかった。

かくなる上は是非も無し。

おつやの方は、この首を差し出す故、御坊丸と城兵は助命して欲しいと秋山虎繁に開城を申し出る。
虎繁は、
「んばかやろう。お前の首なんか要りゃしねーから身体を寄越せ。ぐへ、ぐへ、ぐへへへへへ!」
と言ったかどうかは知らぬが、とにかく、おつやの方が秋山虎繁の嫁になれば御坊丸、城兵の助命をする、さもなくば皆殺しという条件を突き付けた。

自分一人が死ぬつもりだったおつやの方にとって、どれほどの屈辱と悔しい思いであったことか。
枕を並べて全員討ち死にするか、あるいは自分がスケベ親父の嫁になり、他の者の命を救うかの選択しかなくなったのである。
一方で、御坊丸だけは何としても助けたいという母としての愛情もある。
かくしておつやの方は秋山虎繁の嫁となる選択をし、岩村城は開城、城兵は助命され、御坊丸は人質として甲斐に送られた。

この時のおつやの方の心情を思うと、おっちゃんは涙無くしては語れないのである。

さて、一方、この報を聞いた我等が信長公である。
信長公はお怒りあそばせた。
とりあえず救援に行かなかったことは置いておいて、お怒りになった。
よりによって、おつやの方は敵将の嫁となり、城は取られた挙句、自分の息子の御坊丸は人質となって甲斐に送られてしまったのである。

なんだてて、それは?!
まーかん、あいつら、くそだわけが!

と、尋常なお怒りではなかった。
救援には行かなかったけど。

しかしながら、実はそれまでの織田と武田の関係性や経緯を考えると、信長公のお怒りももっともな面もある。

実は、信玄坊主の西上作戦というのは、織田と武田の同盟を一方的に破棄した軍事行動であった。
1565年、織田と武田は両家の婚姻関係を築き、同盟を結ぶ。
1567年になると、信長公は美濃を攻略し、跳ぶ鳥を落とす勢いであった。
そして、その当時、武田側使者として織田家を訪れていたのが秋山虎繁だったのである。

いやー!若大将!、御大将のご活躍ぶりには我が信玄坊主も畏れ入って感服しとりますー。日本一!

と言ったかどうかは知らぬが、

あの野郎、ええもん食わして歓待したったのに、よりによってわしの城を攻めるとは、たいがいにしとかなかんて!
そーいやーあいつ、ちょくちょく城に来とったけど、おつやを見に来とったんか?!
キモい親父だて、ストーカーか、おみゃーは!

と、我等が信長公はお怒りになったに違いない。

織田との同盟が首尾よく進むと、武田は今川領へ侵攻した。
ところがこの時、北条が今川へ援軍を出し、更に北条・上杉同盟が成立し、北条・上杉・今川の武田包囲網が完成し、信玄は窮地に陥る。
この時信玄は、
将軍・義昭と朝廷に謙信との和睦を斡旋依頼して!お願い!
と、信長公に泣きついた。
そしてこれにより、上杉の参戦はなくなり、信玄は信長公のおかげで窮地を脱することに成功した。

信玄坊主が西上作戦を始めたのは、信長公が武田・上杉の和睦交渉を進め、上杉側との折り合いがついた直後のことだったのである。

信長公は激怒する。

義昭と甲越和睦のために動いたったのに、どーゆーことだて?くそだわけが!
あいつは侍の義理を知らんクソ野郎だて。
何が甲斐源氏だて、百姓侍が!
まー今後は武田とは一切関わらんし、武田と名の付くものは皆殺しだがや。

と、本当に言ったらしい。

1575年5月、織田・徳川の連合軍は長篠の合戦において武田勝頼の軍勢を完膚なきまでに叩き、余勢を駆って織田信忠軍が岩村城を包囲する。
11月になり、ようやく武田勝頼の軍勢が救援に向かうという情報をいち早くキャッチした信長公は、信長軍団本体を信忠軍と合流すべく動かす。

信長本体が動いたという情報を聞いた籠城側の秋山虎繁は、もはやこれまでと降伏を申し出ると、織田方に受け入れられた。
信長公は、赦免の参礼に来た秋山虎繁とおつやの方を捕らえて岐阜に連行し、長良川の河原で逆さ磔の極刑に処した。
逆さ磔というのは、文字通り逆さに磔、死ぬまで放置するという残酷極まりない処刑方法で、頭に血が上り最後は目の玉が飛び出て絶命するらしい。

岩村城に籠城していた甲斐や信濃の兵達は帰国を許されたため、岩村城から帰路についていたところ、織田軍の襲撃があり全員が殺害された。

おつやの方の無念さは、如何ほどであったことか?
信長公にしてみれば、約束を一方的に破棄し狼藉を働いたのは武田側である。
しかしながら、おつやの方にしてみれば、敵だった武田側は約束を守り、御坊丸や城兵の助命を受け入れ、味方だったはずの織田は約束を反故にするどころか、逆さ磔の極刑だ。
そして皮肉にも、子宝に恵まれなかったおつやの方だったが、秋山虎繁との間に男児をもうけているのである。

岩村城が落城したことは、勝頼にとって城が一つ減ったというだけではなく、救援に間に合わず、譜代の家臣である秋山虎繁を見殺しにしてしまったという、家中の動揺が始まるきっかけとなる事件であった。

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