「ドラマ」という学校:遅いレビュー集〜『カーネーション』(2011年日本国営放送)


第2週 運命を開く
第12回

 子供の頃、お父ちゃんに代わって集金に行った帰りに、近所のゴンタの兄ちゃんに因縁をつけられて、喧嘩をして帰ると、「女が男と張り合うてどないするんじゃぁー!(怒)」とお父ちゃんにシバかれて、「ええか!これが男の力じゃ!」と一喝された(第4回)。

 地車(だんじり)に乗りたい。大工方(だいくかた)になりたい。でも女はなられへん。女がアホやからそうなってるんやない。
「そういうことになってるから」そうなんや。
 
 地車に乗れへんのやったら、もうおもろい物なんかない。でも、神戸のおばあちゃんが送ってくれた「洋服」っちゅーもんにあこがれ、自分でアッパッパを縫うてみた。時間が経つのも忘れてアッパッパを縫うた。せやけどお父ちゃんは「もうアッパッパなんて縫うな!」と立ちはだかる。何で?何でアッパッパ縫うたらあかんの?
「何ででもじゃ!」

 集金に行った時偶然発見した『桝谷パッチ店』でうなりを上げて「疾走する」地車に脳天を打ち砕かれる。それがミシンや。ミシンはうちの地車や。ついに見つけた。これで死ぬほどアッパッパ縫いたい。お父ちゃん、うち桝谷パッチ店で働きたい。女学校止めさせて下さい。「ゆるさんぞぉ!」と激怒され、壊れた茶碗とお銚子は数知れず。殴られ蹴られ、怖いけど一度しばかれたらもう恐ない。何度もしばかれる。お父ちゃんからすれば、「尻窄みの呉服屋やってガキ4人に嫁にばばあを食わし、どれだけの苦労をしてお前に女学校行かせてる思てるんや!何でパッチ屋なんかで働かなあかんねん」
「どーーーしてもやりたい」からじゃ。

 人生はままならん。越えんといかんものだらけや。

 でもそれは「ほんまにやりたいのかどうか」をお父ちゃんに伝えることだけやのぉて、「うちはほんまにそうしたんやろうかどうか」を自分に確かめていることかもしれん。

 行く先々で通せんぼを食らう糸子は、心がやや荒(すさ)む。そういう時は無意識に心が標的を探しているもんや。あげく不良に絡まれる勘助を助けようとして喧嘩に巻き込まれ、コテンコテンにやられて、助けようと思った勘助におぶわれて帰宅した糸子。
 「糸ちゃん怒らんといて下さい。俺が悪いんや・・・」と庇おうとする勘助に向かって、泣きながら「帰れ!ぼけぇ!」と突っかかる糸子。何があったんやと訝る善作とおばあちゃん(ハル)。「帰れ!帰れ!」と怒り泣く糸子。これがお父ちゃんやばあちゃんにはようわからん。

 寝込んでいる糸子に、おばあちゃんが「おかゆさん食べるか?」。泣き続ける糸子。家に帰って、怪我して寝込んで、まだ泣いとる孫にばあちゃんが尋ねる。江戸時代に生まれたばあちゃんには泣く理由がわからん。

ハル「何で泣くん?」
糸子「悔しいんや」
ハル「はあ?」
糸子「勘助に助けられてもおて」
ハル「それが何が悔しい?」
糸子「勘助に助けられるようになったらもう終いや!」
ハル「アホか?何が終いやねん?」
糸子「あんなヘタレかて、男やっちゅうだけで、うちより強なってしまいよった・・・」
ハル「ヘタレが強なったんや、けっこうなこっちゃないか?」
糸子「結構なことない!なんも結構なことないわぁ(泣く)。知らんまに男だけがどんどん強なっていきよって、うち置いてきぼりや。あんなヘタレに勝てん!一生勝たれへんのや!」
ハル「あんたは女子(おなご)や。女子には女でやることがあらしのぉ。あんたは、ほれ、裁縫。裁縫したらええわし」
糸子「お父ちゃんが裁縫したらあかんちゅーた。アッパッパ縫うたらあかんてぇ(号泣)」
ハル「ほなら、ほかの物縫うたらええやんか?」
糸子「いややぁ!(涙)うちアッパッパが縫いたいんや!桝谷パッチ店で働きたいんや!(涙)ミシンはうちの地車(だんじり)なんや!」
ハル「なんや?『うちの地車』って?」
糸子「うちは地車にも乗られへん、ドレスも着られへん、ミシンも使えんで、勘助にまで負けてもおたんや!もうしまいやぁあーーー!(号泣)」
 この涙の長ゼリフを陰でおとうちゃんが切ない気持ちで聞いている。

 糸子が泣く。尾野真千子の「本気泣き」は、尾野真千子と小原糸子の両者を超越して、その切実な「何か」を観ている者に届ける。どんなにうまいこといかんでも、どんなに何が立ちはだかって自分が無力な存在だと思っても、人間には最後の最後に一つだけ残った力がある。それは「人を励ますこと」である。地車も引けん、ドレスも着られへん、ミシンも使えん、うちはどうにもならん。力が無い。この事態を突き破る力も知恵もない。でも、それでも何とかやっていけるのは勘助を守ったらぁいう気持ち、ヘタレであかんたれの勘助を庇う、荒っぽいやり方であろうとなんであろうと励まそうとする気持ち、それに自分自身がが支えられている。いつもそんなふうには考えてへんけど、そういうことやと思う。

 でもそんな勘助に助けられてしもた。

 そのやるせなさ、その自分の「居所の無さ」に根源的な悲しみが迫る。そして、そういう人間の「自分を根源的に支えている何かがワヤになった時の悲しみ」を脚本家の渡辺あやは必死に描こうと書く。僥倖だったのは、やはりこれを鼻水たらしながら号泣して表現できる天才尾野真千子が地上にいたことだ。

 朝ドラは、時々「時代を反映して、女性の自立や男性社会の矛盾に静かに抗議するかのように」、「男のくせにとか女らしくとか、そういうことではないんです!」という味付けを半年のオンエア中に盛り込むことがある。中途半端な"Women Liberation" テイストだ。
 しかし、糸子が「泣く」理由は「女性が踏みにじられていること」に抗議しているからではない。「男やっちゅーだけで勘助ですら強なって行く」理不尽は、男への恨み節ではない。うちはうちのやりかたで機嫌良う暮らしたいだけや。うちは桝谷パッチ店で働きたい。ミシンちゅう地車を引きたい。勘助を励ましたい。それは男とか女とかやない!

 つまり『カーネーション』「女の自立の物語」ではないっちゅーことや。断じて。

 翌日、人間の根源的な悲しみの最中を彷徨う、もう一人の人間、お父ちゃんがようやく言う。
 
「女学校止めて、その”なんちゃら”パッチ店で働け」
 
 神戸の岳父に「呉服屋を閉めて、お前は出て行け」と言われたお父ちゃんには、糸子の切なさがわかる。この時のお父ちゃん(小林薫)は、本当に悲しい表情をする。
 
 大きな決断をした以上、その口上が必要とばかりに説教するが、狂喜乱舞する糸子はなぁーんも聞いとらん。
 そして、気持ちを糸子と一つに重ね合わせた視聴者は、その説教にとてつもなく大事なことが含まれていることを見逃す。

 「ええか、働きに行こうと思うな。ベンキョーしにいくと思え!」
 これに注意を奪われる。こんなの当たり前やん。
 ここで尾野真千子のナレーション入る。・・・終わる。
 皆、めでたしめでたしとぼんやり観る。
 でも、ぼそっと一秒ぐらいの隙間でお父ちゃんは言う。

 「勉強だけしとっても勉強にならん」
 
 ほぼ視聴者全員が聞き逃したはずだ。こっちの方が100倍大事やのに。

 こういうところも憎らしいほど良くできている。

 恐るべし。カーネーション。

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