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リアクションならぬ「レスポンス」の力〜世田谷パブリックシアター「地域の物語2024ワークショップ(ラップしようぜ!)」に寄せて

<忖度と政治の「リアクション」> 
 テレビ画面に映る雛壇上のお笑い芸人たちは、笑いを取ろうとする者の動きに対面して、「どんなリアクションが求められているのか?」と瞬時に考える。歳上相手なら「先輩のテイストを殺すことなく盛り上げて、同時に自分も”オモロい奴”で着地する」ことに必死になる。後輩相手なら「露骨にならぬように自分を脅かす者を潰す技法を用い、同時に自分のオモロい印象を残す」工夫をする。
 いずれもお笑いの世界「で」生きるというよりも、お笑いの世界「を」生きのびるための反射神経の発露であり、芸能界「を」生きる忖度政治の手練手管である。どうか生きのびてほしい。
 しかし、そこから浮上するのは、己がその場で要求されるロール(役割)を文法にした「位置のゲーム」のプレーヤーの姿であって、彼らの発する言葉には、「ここに自分が居ることの当事者性」が希薄である。彼らの言葉とは、「彼ら自身」を描くものではなく、彼らの「位置」を決めるからである。これこそが、もはや楽屋やスタジオを飛び越えて日本社会に蔓延している「リアクション」だ(”reaction"ではない。カタカナ、つまり日本(社会)語である)。

<「今、ここが大切です」というラップ>
 3月17日の夜、私は東京三軒茶屋の世田谷パブリックシアターの「シアタートラム」に出かけた。バブリックシアター主催の「地域の物語2024ワークショップ(ラップしようぜ!)」を観覧するためだ。
 ここに参加するまで、私のラップ知識はつぎはぎの情報だけで、脳内にあった言葉は、RunDMC とか、public enemy、そして自分では「これが日本初のラップだろう」と思い込んでいた、バッキー・小林の広島弁のラップ「うわさのカム・トゥ・ハワイ」、近田春夫のやったラップの一節🎵どぉしてもシラフじゃ生きてけなぁい!🎵くらいであった。
 会が始まるやいなや進行の柏木陽さん(別名”OZ3”)が、「会場の仕上がり具合がもうすでにエンディングです(汗)」と言ったように、観覧席は謎の温まり状態だった。そしてこれは「何かがムーブする予感」を表していたのかもしれない。
 何度も何度もお稽古を繰り返してきた、お互いに縁もゆかりもない市民14名のラッパーたちが壇上で紹介されると、もう何か空間全体が「揺れ」始めたように感じ、そこに個々の「コロナの日々に溜め込んだ何か」がセットされた。オリジナルのMCネームが、無限の想像をかき立ててくる。
 彼らをこれまでディレクトしてきたラッパーfuni さんの呼びかけで、「ここで出てきたものは外に持ち出さない」というルール説明が「ラップ」で行われ、基本的安心が確保されないとラッパーは自由な表現ができないと説明された。「ある時、その場に、こうしている私」からのメッセージは、SNSに晒されるかもしれないと思った瞬間にシュリンクする。「今が、ここが、大切です」ということだ。

<当事者性を表現する困難>
 だから14人があの場でどんなメッセージを交差させたかについては、ここには「持ち出せない」。お伝えしたいのは、メッセージそのものではない。あのパンデミックの最中、みんな(知っているけど話せなかった友、話したけど話せていなかったことも抱えている友、知らないけど自分と同じようにここまで生きて来た人)が、どんな風景を見て、どんな心の異音を抱え、何が嬉しく、何が切なく、いかに笑い、いかに泣き、誰と会い、誰と別れたかを、早春の晩に高層ビルの根っこの空間で「絞り出すように」ラップした、その事実と、それが14人の「やり・とり」でなされた時に起こった化学反応についてである。
 他者とのコミュニケーションが希薄となったパンデミック下での暮らしが3年続いたことで、埋もれてしまったものは「当事者性」である。英語に翻訳不能なこの言葉で表現されるものは、平時でさえ浮上しにくいものだ。「これはオレ・ワタシに起こった、起こっていることなんだよ」というメッセージは、そうそう簡単に表現できない。社会性(ロール)が邪魔をするからだ。
 しかも、コロナによって普段とは異なった条件の下に置かれていたから、「オレ・ワタシの身体に隠れていたり潜航していた気持ちや言葉」を引き出すためには、固まってしまった心身をほぐしていかなければならない。おそらく最初に集まった時、この14人は、出てこない言葉に呻吟し、悶え、ギリギリのところでラップを構成していったのだと思う。

<身体を経た言葉「レスポンス」>
 しかし、実際に彼らのラップを堪能していくうちに、ただの文章の朗読ではもたらされないだろう何かが作用して、それによって己にも隠れて眠っていた色々な気持ちがリズムを通じて引き出されてくる。それはいった何なのか?リズムがもたらすもの?音韻の構成と速度?ムーブするラッパーの表情?
 その中でひとつのキーワードを発見した。それは、「レスポンス(response)」である。ラップは、怒り、荒み、傷ついた70年代の若いアフリカ系アメリカ人の持つやり場のなさを発散するための手法として広まったが、そこにはアフリカ系独特の早口と問いかけのスタイル、つまり「アスキング(asking)」に対する「アンサーリング(answering)」があった。そうした「やり・とり」を表すもう一つの言葉がレスポンスだ。つまり、ラップとは言わずもがなだが「問答」なのだ。あの晩のfuni さんは、レスポンスという言葉を使っていた。
 もちろん英語の"response" の類義語として、”reaction”もある。でも、私はfuni さんのつかうレスポンスという言葉がとてもしっくりと来たのだ。なぜならば、カタカナで日常的に使われる「リアクション」は、冒頭で示したように、私には(この日本社会では)忖度や手管も含めた「たたずまいを守技法」に近く、そこでのやりとりには体温が伝わるような当事者性が感じられないからだ(「レスポンスが可能であること」は、"responsibility"である。言うまでもなくこれは「責任」と言う意味だ。日本語の責任は随分と遠い旅をしてしまったようだ)。
 14人のラッパーたちの言葉の交差にあったのは、メッセージを受けた相対者が「レスポンス」している姿だった。リアクションとの決定的な違いは、そこに発せられた言葉が「一度身体を通って出て来ている」ことだ。身体を通った言葉は、「それを、今、ここにいるオレ・ワタシが、間違いなく、あの時、感じ抱えた、何か」を含んでいて、それが観客席にいた者たちに届くのだ。人々はそれを受け、笑い、息を飲み、ため息を漏らし、そして泣く。

<徹底的に個別的なものの交差が普遍を浮上させる>
 当事者性を表す出来事とは、要するに徹底的に個別的(local)なものだ(ローカルとは「田舎」という意味ではない。「各々の」という意味だ)。それが交差し合う。しかし、そこでは徹底的に個別的なるものが、身体をくぐった言葉とともに混じり合って、ドライブ感を生み出す。そして、逆説的にそのドライブ感とは、「個別の当事者性を突き詰めた中で浮上する普遍性」の別名だと言って良い。
 「オレ・ワタシの切実で取り換え不能な出来事が、レスポンスし合う中で、オレ・ワタシの共有地平をもたらす」という、人間が持つ偉大なる逆説的昇華機能だ。
 だから私は思うのだ。コロナをきっかけに気づいた色々なことを、やっぱり私たちはちゃんと言葉で「やり取り(コール&レスポンス)」する必要があるのだと。話し、受け、レスポンスし、忖度も政治的配慮も捨象した、当事者性という身体を共有するために。
 興奮冷めやらぬ受付で、funi さんと少しだけ立ち話をさせてもらった。「ひとりひとりの想いが、こうやって重なり合うと、とんでもない力になりますね」という、14人を見守って来た funiさんの言葉に、私はインスパイアされて、忘れずにいたいあの晩感じたことをこうして記録した。
 そして、「オレもやろうかな」と世田谷のチンチン電車内でつぶやいた。

 4月からまた大学の講義が始まるが、いくつかの授業をアクティブ・ラーニング風に切り替えた。「座学で90分一方通行の講義をやって試験やって単位を出す」という定番が、またちょっとグラついて来たことは確かだ。


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