敗戦74年の夏の終わりに思う〜疾(やま)しき沈黙に水をさす言葉を〜

<疾しき沈黙:310万人が亡くなった理由と統治エリート>

 10年ほど前の8月にNHKで『日本海軍400時間の証言』という特別番組が三回連続で放映された。310万人もの人々を死なせてしまった、あの戦争の指導層であった旧海軍のエリートたちが、1980年から密かに集まり、「海軍反省会」という会合を10年以上も続けていたことが明らかになった。そこでのやり取りは、テープ数百本に記録されていて、それが公開され、NHKが特集番組にまとめ、書籍としても刊行された。
 問題はいくつもの側面にも及んでいたが、最も深刻な問題とは「疚しき沈黙」という言葉で表現されるだろう。「これはいかん」、「どうにもこれは誤った決定だ」、はたまた「こんな馬鹿げたことをやっていては大変なことになる」と思いつつ、何かが萎縮して沈黙を守り大勢の推移に身を任せることを指す。そして「これを見過ごしている自分」に疚しい気持ちを感じながら、それでも「それはやはりおかしいではないか」と言うことができず、黙り続ける。
 社会生活においては、こうした「沈黙を強いられる」立場に不可避的に追い込まれることは頻繁にあるだろう。部長がやろうとしていることは間違いなく業績的失敗を生むと、部下の誰もが確信しているのに、「とても言えない」というストレスに、他者と協働する者たちは、ほぼ毎日晒されているのかもしれない。
 しかし、ここで扱われた「沈黙」は、若干の損失を会社にもたらすこととは比較にならない、敗戦という壮大な悲惨をもたらした。もうあと少しで、昭和天皇の使った言葉「民族の滅亡」に至る、てつもない数の同胞の死と国土の荒廃をまねいたのだった。
 この事態を生んだ理由が、単に戦争を指導した統治エリートたちの愚劣さと無能にあったのなら、以後の歴史的課題は「有能な人間をどう生み出すべきか」となる。しかし、ここで私が冗長なる論考を示さなければならない理由は、70余年前の、あの沈黙をした者たちが皆おしなべて「とてつもなく優秀と目されたエリートたち」だったことだ。

<優秀だったはずのエリート>
 あの無謀な戦争直前に、日本のエリートたちはただの精神論だけで、あのような重大な決断をしていたわけではない。優秀な日本のエリート軍人、政治家、官僚は、アメリカの戦争遂行のための国力・生産力はどんなに低く見積もっていても、日本の10倍以上であること、とりわけ石油の生産力の比較では「日本を1としてアメリカは700」という単純な現実を認識していた。
 日本は、開戦の約一年前に、資源を求めて南部仏印(現在のベトナム)へ軍を出した結果、アメリカに資産凍結を宣言され、石油・屑鉄の輸出を止められた。甘い予測でもたらされたこの事態に驚いたエリートたちは、資源なき島国がアメリカと対等に戦争できるはずはないと、その時点では冷静に理解していた。
   海軍の幹部層の多くにはアメリカやイギリスへの留学経験者がいた。司馬遼太郎『坂の上の雲』には、明治の海軍のエリートたちがどれだけ合理的にものを考え、どれだけ冷静な現状認識を持って、生まれたての近代国家の運命を考えていたかが描かれている。
 したがって、昭和の軍人の決断は、こうした知性を備えた明治人の後輩でありながら、しかも対米戦争がどれだけ無謀かと了解したまま、あの蛮行に突入したという「謎」に満ちたものである。
 20世紀の戦争が兵士のみならず「銃後」と共になされる総動員戦争であることも、二十数年前の第一次世界大戦の経験によって、世界のエリートの間ではすでに思考の前提であったから、彼らの決断がどれだけ多くの人間の人生と生活と運命を狂わせるかを、わからないわけがなかった。

<とてつもないほどのエリートたち> 
  
軍のエリートとは社会比率においても飛び抜けた存在だった。海軍兵学校(海兵)に入るためには「帝大(東京帝国大学)」に入るより難しい試験をパスせねばならず、そもそも大学への進学率は、太平洋戦争指導者たちが進学した明治の終わりから大正にかけては約1%である。陸軍においても事情は同じだった(陸軍士官学校:陸士)。
 戦前の日本では、日本中の同級生のうちの90%以上は、普通は尋常小学校を出れば、丁稚となって働きに出るか、もう二年だけ高等小学校という「おまけ」のような学校に行って、後はもうひたすら働きづめの人生であったから、陸士海兵に行ける者たちは、勉学も肉体も飛び抜けたものを備える、本当に一握りのエリートだった。
 しかも、あの戦争の決断・実行・指導を担当したのは、そうしたエリート達の中でも卒業順位がシングルナンバーで(海軍では「ハンモックナンバー」と呼ぶ)、その先にまた超難関と言われた陸海軍大学校の卒業席次においても優秀とされた出世頭ばかりが集まる軍令部(陸軍は参謀本部)や陸海軍省に所属する参謀たちであった。
 つまりあの戦争は、「愚劣な軍人たちの暴走によって起こった」というよりもむしろ「あれほど優秀とされた人材があれほど集まっていたにもかかわらず、だれも止めることができなかった」ものだった。

<合理ではなく「空気」を読んだエリートたち>
 開戦の決断、特攻攻撃の立案と実行など、重大な局面において、相当多くのエリートたちが「これは誤りだと思っていたが、公然と声に出して言うことができなかった」と戦後告白している。その中でも、非常に印象に残る典型的な言葉が、「あの膠着状態にあった時、事態を打開するために強大なアメリカを相手に一戦打って出るというのが、戦争指導者層内の大勢の気分だった」というものだ。
 「大勢」とは、言うまでもなく昭和天皇の玉音放送で使われた「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み」という言葉だ。大勢とは、ある世界の「おおよその形勢」のことであるが、要するに「もはやあの状況においては河の流れを止めることができなかったのだ」という意味だ。
 ということは、スーパー・エリートたちにとって、資源・工業大国のアメリカと戦争をする国力が日本にはないのだという「事実」認識は、開戦という判断に全く影響を与えず、与えたのは、もはやそういう形勢が作られていたのであって、それに逆行するような議論をする流れではなかったという「気持ち」だったということになる。
 この「流れ」を、かつて山本七平は「空気」と呼んだ。「アメリカとの戦争など狂気の沙汰である。諸君、冷静になり再考されたし。開戦となれば、数百万の戦闘員と銃後国民の生命財産や人生を台無しにしかねない。かような決定を『そういう空気ゆえ』などという理由で行って良いのか?」と、横並び、あるいは縦の関係において「水をさす」ことすら、麗しき選良たちにはできなかった。そうできない「空気」が、当時の彼らの間にあった。
 驚くべきことである。幾千万もの「ことば」を通じて、豊饒なる高等教育の恩恵を受け、人もうらやむ地位にあり、国民の人生と運命を預かったエリートが、「空気を読んで」開戦の流れに身を委ねたからだ。

<開戦直前の非合理報告とそれへの不問>
 詳細は、これまで積み重ねられてきた研究に譲るが、実は優秀であったはずのエリートたちの仕事ぶり、例えば開戦直前の海軍省の作戦第1課の参謀たちが書き上げた戦争計画報告のいい加減さなどは、実に酷いものであった。何しろ「石油生産力1対700」という現状でも、対米戦を「やれる」と合理化しなければならないから、その内容の破綻ぶりたるや推して知るべしである。
 信じ難いのは、この課内「第一委員会」という閉じた世界で書かれた報告書を読んだ、海軍トップの永野修身軍令部長がいたく感激し、強大な国力を擁するアメリカとの戦争を危惧していた昭和天皇に「大丈夫です。心配ありません」としゃあしゃあと上奏したことだ(この海軍最高権力者は、数ヶ月後にミッドウェイでの大敗北についても虚偽上奏を重ねている)。
 この第一委員会の報告を読んだ「兵站・輜重」(物資の供給や補給を担当する部門)関係の元海軍軍令部員は、「兵器として物の数にも含めることができないようなポンコツや使い物にならない老朽化したものも全部書いてある、まことにいい加減な戦争計画書だった」と、戦後の反省会で厳しく断罪している。
 賢明なる軍令部のエリートたちの中には、この第一委員会の報告や永野軍令部長の不可解な発言や行動を疑問視する合理的な根拠を持った人々が必ずいたはずである。無論、軍隊という上位下達の官僚組織の中で、軍令部総長にものを言える人間は沢山はいない。垂直上昇の進言は、軍事組織にあっては構造的に不可能であろう。
 しかし、真珠湾攻撃の作戦を立てた、かの山本五十六大将は、アメリカとの開戦については「狂気の沙汰とした言いようがない」と当初から問題外とみなしていたし、戦費調達の予算が止められれば、巨大な軍艦も航空機も燃料なしにはただの鉄の塊にすぎないのだから、当時の大蔵省が「戦争遂行の財務上の根拠なし」とひたすら抵抗すれば、少なくとも開戦を遅延させることもできたかもしれない。要は、エリート同士の「横並びの関係」である。
 それぞれの立場のエリートたちは、それぞれの場でもう少し何とかできたのではないのかと、今日においても無念はつのる。一体、エリートの賢明さとは何なのか?彼らの「弱さ」はどこに由来するのか?

<信念と覚悟なき近代日本のエリート>
  評論家の鶴見俊輔は、かつてこういう日本のエリートたちの持つ疾患を「一番病」と呼んだ。この病気の症例の典型は、東京帝国大学を首席で卒業した、実父である戦前の文筆家・政治家鶴見祐輔である(祖父は、東京市長、台湾総督府民政長官、満鉄総裁だった後藤新平)。
 一番病とは、近代日本の学校教育において、外からの手本(教科書)になんら疑問を持たず適応し、その内容を暗誦する能力という基準からみて最も成績が良い者たちのかかる疾病である。彼らが有能なのは、「新しい教科書」の内容を正確にオウム返しすることで、教師の意図を忖度し先回りして準備するという一点である。所謂「銀時計組」(首席卒業者には天皇より「恩賜の銀時計」が与えられた)である。
 一番病ばかりを集めた近代日本のエリートは、「世界の大勢」が変わり、これまでと完全に切断された異なった教科書が入ってくると、かつて教わったことと、それがどれほど矛盾するものであっても、精神的に葛藤を起こすことなく、一瞬のうちに健忘症にかかって、新しい教科書に適応できるという、特殊な能力を持ち合わせていた。敗戦は、その病状を可視化させたのである。
 父祐輔は、戦時中は近衛文麿の大政翼賛会に熱狂していたが、玉音放送を聞いた直後、「自分は英米法科出身だし、英語も不自由ないから米軍のために役に立つ仕事があるはずだ」と、ひとかけらの葛藤もなく漏らした。俊輔は、そういう無節操な、一瞬の後に「次の教科書(デモクラシー)」の下で優等生にならんとする父親に、激しい嫌悪と軽蔑の念を抱いた。
 俊輔自身は、病的なほど自分を溺愛した結果自分を縛りつけた母親との葛藤の中で不良乱行の限りを尽くした結果、開戦の数年前にアメリカのハーバードに留学させられ、その時は一番病的に猛勉強をした。劣等と一番を往復したことになる。
 しかし、間も無く起きた日米開戦の際には「日本が負けることはわかっていたが、その時には負けた側にいたかった」という根拠を特定できない気持ちで、交換帰国船で帰日した。彼はそれも含め、ある種の「葛藤」を経て、軍属として送られた南方で「人を殺すか自殺するか」と苦しみぬいた人間だっただけに、父親の無節操、無思想ぶりに絶望したのである。
 父のとった態度が含む問題は、「昨日までの敵にぺこぺこする人間としての卑しさ」という「一般的道徳」の問題だけではない。肝要なのは、こうした思想的転換を精神的な苦悩や葛藤を全く生み出すことなく成し遂げ、様々なイデオロギー的な衝突をすべて瞬時に「棚上げ」にすることができる、その精神構造である。そして、これは「忖度と萎縮による沈黙」と、コインの裏表の関係にあるだろう。

<封じられた葛藤の行き先>
 あの戦争への突入を決意したエリートたちは、自ら告白したように、抵抗できない「空気」に乗った。しかし、曲がりなりにも燦然と輝く高等教育を受けてきたのだから、アジア・太平洋戦争を戦ったことの意味と正当性について、終戦時において、いくらかでも言い訳が用意されていたはずである。

 ・・・世紀転換以降、先発型資本主義列強の世界市場獲得の圧力は相当に強く、少資源国家日本は後発組として苦しい立場に追い詰められ、国民に十分な富を配分するには、絶対量としての生産が追い付かず、新たな生産や資源採掘の領域を発展させない限り、じり貧的に追いつめられる一方だった。
 ところが中国における権益を目指すアメリカは、継続的に日本に対して種々の圧力を加え、満州における日本の権益を認めようとせず、ついには経済制裁(粗鉄と石油の禁輸)によって追い詰めてきた。
 窮乏回避のために資源の安定供給を求めて東南アジアへ進出した我らに対して、今度は在米日本資産凍結を実行し、最後の日米交渉でも「戦争を誘導する」としか思えない最後通牒を出してきた。
 欧米の横暴なアジアにおける経済的政治的支配を打破し、真の意味における自立を期して、座して死を待つより、むしろ日本は開戦を選択したのであって、それは新しい歴史を作る戦いだった。したがって、戦には負けたとはいえ、あの大義は間違っていなかった・・・と。

 敗戦とは、軍事的な失敗という事実だが、それは必ずしも「自分たちの理念や今なお信じていることは一切無意味になった」ということではない。白洲次郎が「我々は戦争に負けたが奴隷になったわけではない」と喝破したあの意味である。
 それゆえ、爾後歴史によってどのように裁断されるかは別として、「軍事的には敗北せしものの思想的敗北にあらず。正しいと信じる間は”我々が正しい”と言い続けるのみ」と毅然としていれば、そこには「信念を持って言い続ける態度はあっぱれである」という評価の余地があるはずだ。
 しかし、その判断の根拠は、相当な合理性と自らの矜持と文化的遺訓に支えられ、徹底した思想的一貫性を持たなければ、国際社会で敬意を受ける高潔な存在とはなりえない。
 我々の先人統治エリートにはそうした葛藤を、あの場面で毅然と言語化し、説明した者達はごく少数しかいなかった。ほとんどのエリートは、小心翼々と強者がもたらす新しい教科書に、大した葛藤なく飛びつきリセットを行うという功利に陥った。その意味で、近代日本のエリートたちの悪しき柔軟性をもつ「精神的習慣」には深刻な問題が含まれていたのである。
 同じように破滅的な戦争にドイツ国民を導き、ニュールンベルグで軍事裁判を受けた元ナチスの大物ゲーリングは、エリートとして明確な権力意識を隠すことなく、「あれは自分が確信をもってやったことであって、今でも間違っていない」と、被告席で哄笑したと伝えられている。
 極東での日本の被告たちが世界に示したのは、「自分はそのような判断をする立場になかった」、「一介の軍人として上官の命令に従っただけである」、「自分はつまらないひとりの臣下にすぎず自分は天皇陛下があってこそ輝く者である」と言い逃れをする卑小なる姿であった。
 そこには葛藤を自覚しつつも封じ込め、その上で毅然と覚悟と矜持を示す者は誰もいなかった。これを見守るかつての周辺エリートは当然沈黙を守った。破滅が訪れようと、葛藤なき転回も、疚しき沈黙も、いずれも終わらないのである。

<戦後は「空気に水をさす」人間を生み出せたのか?>
 戦前の日本のエリートたちは、かように「それはまずいのではないか」と言えず、近代以降人々が構築してきた様々なものを文字通りほとんど破壊させた。国土は焦土となり、軍事的のみならず道義的敗北をも世界にさらした。そして、それに対する検証作業を放置させた。
 こうした「葛藤なく、新しい教科書を暗記し、大勢と空気が変わればそれを読みまた適応し、その帰結として破滅を招いても一切の責任を取ることなく、次の空気を読む」彼らの性癖は、戦後新しくアメリカによってもたらされた「デモクラシーの教科書」によって克服されたのだろうか?

 否である。

 そして、このプロセスは基本的には変わることなく、あれから70年以上を経た現在も継続中である。
 我々の統治、社会の運営では、様々な政治、社会的エリートたちによる「空気読み」と過度に萎縮した「忖度」によって、法に背く官僚の行為も不問に付され、憲法上の権利も侵害され(行政文書を改ざんする。それを検察は起訴することもしない。表現の不自由を問うための「自由」を政治家の権力的介入によって侵される)、加えて、行政権力の陰陽にわたる種々の圧力を忖度した自治体は社会が知見を成熟させるための討論のアリーナの提供を拒否し、民間ジャーナリズム、公共放送局を自称するテレビ・ラジオ局は、あからさまな報道における作為と不作為を通じ、民主政治の素材である「ファクト」を社会に適切に提供できない事態となっている。
 1945年の統治エリートたちは、9年前のクーデター未遂(2.26事件)によって、「自分が現実に暗殺される可能性」の下で、その実感と恐怖に囲まれて生きていた。若い将校たちのテロリズムは、賢明なるエリートたちが「合理に基づいてものを言う」条件を直接的に脅かしたし、そこに至るまでにあらゆる政策領域で積み上げられてきた戦争を準備する決定が、分厚い壁のように彼らの前に立ち塞がった。
 憲法構造も、国家構造を構成している要素が過度なまでに分散・多元化していて、そもそも誰がどこに正しい政治的圧力をかければ、どのような決定過程が機能するかも、各々のエリートはわからなかったろう。エリートたちの活動の場においては、それは不毛なるセクショナリズム、悪しき縦割り行政構造として現れたろう。

<整然と忖度に水をさすシステムの構築を>
 しかし、今日、我々の政府や社会に与えられている条件や諸制度は、曲がりなりにもこうした戦前の失敗と悪弊の克服を目指す民主政治と、それを保障する新憲法とともにある。総理大臣の選挙演説にヤジを飛ばしただけで、警察に拘束されるという独裁国家並みの事件も起こっているが、これはまだ「異常なことだ」という社会的反応をかろうじて残している。まだ、少々完全なる破綻までには時間があるのかもしれない。
 あの戦時中にエリートの精神内で起こっていたことは、基本的には変わっていない。だから、私は、注意を呼びかけたいのである。我々が「今」できることは、エリートたちの「あらまほしき鋼のような信念と思想の再構築」を待つことではない。残念ながら、これにはもう100年の時間が必要かもしれない。
 それを見据えながら、なお今できるのは、我々の社会の宿痾である「悪しき忖度と沈黙」に冷水を浴びせるシステムである。
 合理的裏付けがないという「自覚」があるにも関わらず、恒常的に生み出される「身体化された忖度」。これに対して、きちんと整然と「水をさす」行為の手法と手続きを、国家と市民社会の両方の基盤において、制度的に、法的に、システム的に構築することが必要である(「空気を読まない者達を保護するシステム」、「政策ターミネーション」と言われる、政策の中断・廃止・収束」を合理的に行えるための手法やその研究」などはその例だろう)。「間違ったら引き返して止める」ことを「失策」とひたすら論難するだけではなく、これを整然と行わせる手続きの設定も重要だ。
 萎縮した忖度から生まれる「重大な問題への無抵抗の黙認に向かって静かに背中を押す空気の流れに身をまかせること」を粛々と寸断する「声帯の振動と記録」が、310万人の戦没者の御霊に応えるためにも、我々にはそれを制度化させる責務がある。

 今日なおも、止むを得ずなされた忖度と沈黙の後に、統治エリートたちと我々の間に、起動力としてのある種の「疚しい」気持ちがわずか一片でも、もしもあればの話であるが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?