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decide my life


いつ頃からだろう。

「あ自分の人生だ」って当事者意識が芽生えたの。

20数年間生きてきて、その時その時必死で生きてきて、何をするも何をしないも自分で決めてきた。

もちろん周囲の人の意見に流されることもあったし、今思えば「果たしてあれは自分の意思だったのか」みたいなこともたくさんあった。それは現在進行形かも。

自分が意志が弱い方の人間なのかもしれない、と何となく気がついた大学1年くらいからは、弱さを隠すのに必死だった。精一杯周りとかぶらないことをしようとした。

服も髪型もそうだし考え方も趣味も。

今となってはその時に形成されたものが、やっと自分の一部になったけど、あのときは自分を見つけるのに必死だったんだろうな。

でもそういう時期があったから、今自分を自分と認知できている気がする。

おかえり2018Ver


コロナがあり、気仙沼での生活を経て、大学の編入という「あんまりマジョリティじゃない方の人生」が始まったあたりから、自分の中の仮説を1個1個身をもって体験するターンが始まった。

たとえば起業。会社を起こしたけどうまくいかなかった。それは多分「起業する」的な側面ばかりに気を取られて、内側に向けている意識が圧倒的に足りなかったからだ、とざっくり思う。

たとえば仕事。学生時代から就活そのものや有名企業アンチ的な考え方はあったけど、「食わず嫌いも良くないな」と思い始めた時期があって、就活をしたし、業界では名の知れている企業で働いてみた。けどやっぱりしっくりこなくて、どれもすぐにやめてしまった。

そういう経験を積み重ねていくうちにわかったことは「わたしはあんまりいろんなことに興味がない」ということ。あとは「納得できないことをやり続けることができない」「ハートとパッションで生きてる」「心を裸にして会話できる人と仕事をすることは楽しい」ということ。

そして1番の収穫はわたしが1番誰よりも「普通」にとらわれていたということに、気づいたこと。

でもその「普通」は思ったより普通じゃなくて、自分が決めた自分が知りうる範囲での「普通」だっていうことも、最近は少し分かり始めてる。

そういうことを少しずつ積み重ねていくうちに、なんとなく「自分で人生を決めて生きてる」って実感することが多くなった。

多くなったというか厳密にいえば今までの決断はなんだったのだろうか、ただ言葉にしただけで実は何も決めていなかったのではないか、と思わず過去が不安になる時すらある。

今でも誰かと自分を比べて暗い気持ちになることはあるけど、だけどきちんと「自分で自分の人生を決めて生きられることの幸せ」を噛み締められているので多分わたしは超ラッキー。

今日も1日中パソコンとにらめっこして、19時くらいになってやっと夕飯とお弁当のストックのおかずづくりに勤しみ、ひょんなことからこうたとすれ違い、日付が越えそうな今、ふーっとお茶を飲みながらこれを書いているわけです。

ラーメンフェス行きたかったなあとか思いながらね。

5年くらい前は本当に生きてるの嫌だ〜って日が多かったけど、いまは5年後の自分を想像することが楽しいので、生きてるといいことがありますね。


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