「何者か」に思い知らされること

「何者かになりたい」と思う人は、おそらく多いと思う。何者かになれば、別になんでもなくても多くの人から尊敬されるから。

でも、尊敬されるということは、多くの人から「何者かである」と認識されることだ。

そして、そうした人たちの中には「何者かである」と認識された瞬間から「尊敬され続ける人間にならなくては」と考える人もいるだろうと思う。

尊敬され続けると、存在をありがたがられて、お金が手に入るかもしれない。気持ちの良い言葉も手に入るかもしれない。両手に持ちきれない好意も手に入るかもしれない。

とても、素敵なことだと思う。

でももし多くの人が、いや、ほとんどの人が「何者か」になったら、全員がそんな良い思いを出来るんだろうか。

僕はその場合に起きる雰囲気が存在していて、それにパターンがいくつかあると思っている。

それは、

1.「何者か」の価値が下落する

2. 皆が認識する「何者か」の水準が上がる

3. その両方

の3つ。

1は、皆が「別に皆が何者かにならなくてもいいのではないか」と思おうとする雰囲気。

2は、周囲の者が「このぐらいじゃ別にすごくない」と思おうとする雰囲気。

3は、1.2を合わせた雰囲気。

これらの雰囲気を経て、皆がさらに尊敬される「何者か」になるべく、自らの駄目なところや、人に嫌われそうな部分を排除していく。

そして綺麗にトリミングされた自己は、「見世物」としてより円滑に機能する。

この「見世物」としての自分が、一般的に認識される「何者か」で、

「トリミングをされる前の自分」は、「何者かになる前の自分」ということになるんだろうか。

これはあくまで好みの話なんだけど、
僕は他人の「トリミングされる前の自分」の方が好きだ。

何故なら、そのうまくトリミングされていない歪さが面白いと思うからだ。

もちろん「見世物はみな画一的で面白くない」ということではない。見世物にだって振り幅はあるし、より練られ、計算され、人を楽しませる。

だけど僕は、トリミングをされすぎたものに長い時間触れていると、時々苦しくなる。
「自分はなんて平凡なんだろう」「どうしてこんなに何者にもなれないままなのだろう」と辛くなる。

僕が出来なかった計算、好きになれなかったものたち、飲み込めなかった理不尽を、易々と越えていった「何者か」が、「お前は何故生きているんだ」と首を絞めてくる。

そして
「なんだ、『何者か』になっている人は、全然『何でもなくない』じゃないか。やはり自分には何者かになる才能がないのかもしれない」と思い至る。

だからこそ僕は、自己弁護的に「できるかぎりトリミングされる前の自分を見せられたら」と思うのかもしれない。

その現れとして、ツイッターはうまくツイートできず、noteは多少饒舌だ。
側から見れば、愚かにも稚拙にも映るかもしれないけれど。

「才能は努力を続けられること」という話があるけれど、あれは「努力を続けて結果的に人前に出ることができた人」の話で、「同じくらい努力を続けたけれど一生報われなかった人」の話は、そもそも大勢の人々の目には触れない。

難儀だなぁ。

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