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『深読み 村上春樹 スプートニクの恋人』第13話「バナナ・ダイキリ」


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スナックふかよみ にて



では続くシーンを見ていこう。「すみれの性欲」や「父」について語られる場面だ。

語り手の「ぼく」は「すみれの恋」について、まずこう説明する。

 ミュウに髪を触られた瞬間、ほとんど反射的と言ってもいいくらい素早く、すみれは恋に落ちた。広い野原を横切っているときに突然、中くらいの稲妻に打たれたみたいに。それはおそらく芸術的天啓に近いものであったにちがいない。だから相手がたまたま女性であるというようなことは、その時点ではすみれにとってまったく問題にならなかった。

そういえば、サリンジャーの『THE CATCHER IN THE RYE』でも「髪を撫でられる」シーンがあったわよね。

そして撫でられた方は、稲妻に打たれたみたいな衝撃を受けるの。

その通り。

『THE CATCHER IN THE RYE』のホールデン君の場合は、びっくりして逃げ出してしまうんだけどね。

村上春樹は、サリンジャーが使った「年長者が慈しみをもって若者の髪に触れる」というモチーフを『スプートニクの恋人』で踏襲した。物語にとって、とても重要なモチーフだから。

ちなみに、このモチーフの元ネタはこれだ。

『ゲツセマネの祈り』カール・H・ブロッホ

サリンジャーはそのまま「男同士」で使ったけど、村上春樹は「女同士」に置き換えたってこと?

そういうこと。

そしてさらに村上春樹は、「宴の席で髪に触れる年長者と、うっとりしてしまう若者」というモチーフを「すみれとミュウ」に落とし込んだ。

それがこれだ。

『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ

イエスとヨハネのこと?

そう。「物書き」である「すみれ」には「福音記者ヨハネ」も投影されているんだ。

だから「すみれ」は中性的で、ヨハネが流刑された地パトモス島へ行ったんだね。

なるほど。「すみれ」は「イエス&福音記者ヨハネ」ってことね。

そういうこと。

そしてこれが物語の後半で重要な意味をもつことになる。

すみれが「不倫」して「行方不明」になるのは「ヨハネ」が投影されているからなんだ。

どういうこと?

別にヨハネは不倫をしたわけじゃないし行方不明にもなっていないでしょ?

その意味は、いずれわかる。

さて、すみれは22歳の春まで性欲を感じたことが無かった。

語り手である「ぼく」は、すみれが「ほぼバージン」なのではないかと考えていた…

すみれの脳味噌のスペースの大部分を常に変わることなく占有していたのは、小説家になりたいという熱い思いだけだったし、相手の誰かにそれほど強く心を惹かれていたわけでもなさそうだった。もし彼女が高校時代に性行為(のようなもの)を体験していたとしても、それは性欲とか愛情とかからではなく、たぶん文学的好奇心からもたらされたものだろう。

ぷんぷん臭うな。

え?何が?

「脳味噌のスペースの大部分を常に変わることなく占有していた」とか「性行為(のようなもの)」とか、言い回しがどう考えても怪しいだろ。

そう言われてみれば確かに…

村上春樹は何か他のことを言おうとしてるっぽいわね…

でも、何だろう?

春木さん、わかる?

い、いえ…

「脳味噌のスペースの大部分を常に変わることなく占有していた」は、あとで詳しく話すから、ひとまず置いといて…

まずは「性行為(のようなもの)」から。

これは非常に単純な駄洒落だ。

駄洒落?

セクシャルの「性」と、ホーリーの「聖」…

つまり「聖行為(のようなもの)」の駄洒落なんだ。

「聖霊・キリスト」である「ぼく」は、「イエス」は若い頃に「聖行為(のようなもの)」を体験していたとしても、それは聖欲や愛情からではなく、文学的好奇心からだろう…と語っているんだね。

まるっきり『THE CATCHER IN THE RYE』と同じじゃない…

でも、この場合「文学的好奇心」って、どういう意味になるの?

イエスの若い頃の「聖行為(のようなもの」は文学的好奇心に基づいた創作物だ…って意味だね。

どういうこと?

まず正典である福音書におけるイエスの聖行為、つまり聖人としての公生涯はこういうものだ。

イエスは普通の青年だったけど30歳頃に突如目覚めて、洗礼者ヨハネに出会い、カナの婚宴で「水をワインに変える」という最初の奇跡を行う…

そして3年半の布教活動ののち、自分が全人類のために「死の杯」を飲まなければならないという宿命に怖気づき、最後の晩餐の後にゲツセマネの園で、ひとり苦悩する…

だけどそれを乗り越え、十字架にかけられて死に、予言通り復活して「救世主」であることを証明する…

これがイエスの聖行為である「公生涯」だね。

じゃあ文学的好奇心から生まれた「聖行為(のようなもの)」は?

おそらく『トマスの福音書』のことだろう。

ここに描かれているイエスは、子供の頃から人間離れした神童で、奇術めいた奇跡を人前でバンバン披露するんだ。

そして人々に救世主だと崇められる。

まるで「超能力を持った一休さん」ね。

でもこれじゃあ4福音書に描かれるイエス像と整合性がとれないじゃないの。

そう。だから『トマスの福音書』は教会から問題視され、新約聖書に入ることなく外典扱いとなった。

「読み物としては、こういうのもありかもね」という感じで。

この「神童イエス物語」を村上春樹は「聖欲とか愛情とかからではなく、たぶん文学的好奇心からもたらされたもの」と表現したんだ。

トンチがきいてるよな村上春樹は。

なあ春木、そう思わんか?

気安く春木春木と呼び捨てにしないでください。

いいじゃんか。俺たち古い仲なんだからよ。

それに今さら他にどう呼べばいいんだ?

ムッシュ春木か? ムッシュ・ムラムラ~(笑)

充たされざる者め。恥を知りなさい。

・・・・・

岡江クン、どうしたの?

いや… 何でもない…

ちょっと… 気になっただけ…

さて、続いては「ぼく」は「すみれ」と交わした「性欲問答」のことを思い出す。

「実をいうとね、わたしには性欲というものがよく理解できないの」、すみれはあるとき(大学をやめる少し前だったと思う。彼女はバナナ・ダイキリを5杯飲んでかなり酔っぱらっていた)ぼくに、すごく難しい顔をしてそううちあけた。「その成りたちみたいなのが。あなたはどう思う?そのことについて?」

やれやれ。とんでもない描写だな。

え? また?

「彼女はバナナ・ダイキリを5杯飲んでかなり酔っぱらっていた」とか、ヤバすぎるだろ(笑)

どうして?

まず「ダイキリ」という言葉。

これは「die キリ(スト)」と読める。

英語なら「キリストとして死ぬ」
ドイツ語なら「女性のキリスト」
ラテン語なら「キリストとして運命が与えられた」

という意味になるんだよね。

まあ…

じゃあ「バナナ」と「5杯飲んだ」は?

「bananas」という言葉には「気が狂ってる・頭がおかしい」という意味がある。

だけど村上春樹は「男性器・ペニス」の意味で使ってると思うな。

あたしも最初そう思ったけど、それ単純すぎない?

実はサリンジャーの短編小説に『A Perfect Day for Bananafish』(邦題:バナナフィッシュにうってつけの日)というものがあるんだよね。

短編集『Nine Stories』(邦題:ナイン・ストーリーズ)に収録されている。

「バナナ」はそれを想起させるためのものだと思う。

バナナフィッシュにうってつけ?

もしかして、あの漫画の原作とか?

漫画『BANANA FISH』は、サリンジャーの短編小説『バナナフィッシュにうってつけの日』が原作なのではなく、インスパイアされた作品なんだよね。

だから「戦争・精神障害・薬物・同性愛・小児性愛」というキーワードが随所に散り場められている。『バナナフィッシュにうってつけの日』と同様に。

でも、どうしてそんな関係のない短編小説を村上春樹は持ち出したの?

関係なくはないんだ。

長編小説『THE CATCHER IN THE RYE』には、その原型となった短編小説がいくつかある。

サリンジャーは、以前に書いた複数の短編小説を混ぜ合わせ、そこから物語を膨らませ、『THE CATCHER IN THE RYE』を作ったんだよね。

だから各短編の中には『THE CATCHER IN THE RYE』を読み解くためのヒントが隠されていたりするんだよ。

村上春樹は『バナナフィッシュにうってつけの日』を想起させることで、『スプートニクの恋人』本文の中では書けなかったことを伝えようとしたんだと思う。

書けなかったこと? なにそれ?

『THE CATCHER IN THE RYE』の語り手「僕」ことホールデンと…

『スプートニクの恋人』の語り手「ぼく」の…

同性愛的、小児性愛的側面だよ。

ええ?

『バナナフィッシュにうってつけの日』の主人公シーモアは、『THE CATCHER IN THE RYE』のホールデン同様に、サリンジャー自身が色濃く投影された人物…

第二次世界大戦でPTSDとなり、ひどく心を病んでいた…

ある日シーモアは、ひと気のないビーチで10歳の少女に「バナナフィッシュを見に行こう」と誘い、彼女をゴムボートに乗せ、沖へ泳ぎ出す…

そして興奮しながら少女にこんなことを言うんだ…

「あのね、バナナがどっさり入ってる穴の中に泳いで入って行くんだ。入るときにはごく普通の形をした魚なんだよ。ところが、いったん穴の中に入ると、豚みたいに行儀が悪くなる。ぼくの知ってるバナナフィッシュにはね、バナナ穴の中に入って、バナナを七十八本も平らげた奴がいる」

ちょっと待って。バナナフィッシュってモロに…

ヤバいじゃん、このシーモアって男…

すると少女も興奮して声を上げる…

「バナナを6本も口に咥えたバナナフィッシュが見えた!」

そしてシーモアは少女の足を持ち上げ、愛情をこめて「土踏まず」にキスをする。

愛情をこめて土踏まずに? なんで?

日本語だとわからない。

「土踏まず」は「the arch of her feet」なんだけど、これって「開脚して見えた女性器」とも読めるんだよね。

「arch」は女性器のスラングだから…

ああ… そうだった…

「arch=女性器」といえば、レナード・コーエンの『ハレルヤ』よ…

カヅオさん、ギターよろしく…

お、おう!

深代、歌います…



その後シーモアは、ホテルの部屋に戻って拳銃自殺してしまう。

この短編小説『バナナフィッシュにうってつけの日』は、直接的には書かれていないけど、主人公の「同性愛・小児性愛的側面」が匂わされているんだよ。

そういえば「ぼく」は、すみれの身体がやたらと「女として未発達」なことを強調してたわよね…

まるで「少年の身体」みたいな感じに…

ペドフィリア… 小児性愛的指向があったのか…

ん? エフェボフィリアだっけ?

それともペドフィリア? どっち?

厳密には10歳以下が対象だとペドフィリア、11歳から上だとエフェボフィリアと呼ぶらしいけどね。

でもこのへんの言葉は、定義が明確な医学用語と、そうでない社会的呼称がごっちゃになってて難しいんだ。

だから今後も便宜上「小児性愛・ペドフィリア」で通すことにする。

OK。

ちなみに村上春樹もサリンジャーの手法を踏襲して『スプートニクの恋人』を書いている。

村上春樹の短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』が、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』にあたるのかな…

・・・・・

さて、すみれの性欲問答に戻ろう。

この問答における「性欲」とは「聖欲」、つまり「聖なる意志」だ…

つまりこの場面では、「イエス」である「すみれ」が、「キリスト」である「ぼく」に対し、三位一体のひとつ「Holly Spirit(聖霊)」のことを尋ねているんだね。

「どういう仕組みなの?」って。

なるほど。そういうことか。

でもそれって、かなりの難問ね(笑)

聖霊相手に「聖霊の成り立ちを教えて」と尋ねても答えられるわけがない。

それを知っているのは、作った張本人「天の父」のみ。

だから「ぼく」は適当な言葉を並べるしかなかった。

「理解するものじゃない。それはただそこにあるんだ」とね(笑)

それですみれはあんな行動をとったのか…

すみれはなにか珍しい動力で作動する機械でも見るみたいに、しばらくぼくの顔を検分していた。それから興味を失ったように天井を見上げた。話はそこで終わった。たぶんぼくとそんなことを話してもしかたないと思ったのだろう。

「何だかよくわからない存在である聖霊のあなたに聞いたのが間違いだったわ。天の父しか知らないことなのに…」ってことね(笑)

そういうこと。おもしろいよね、村上春樹のジョークは。

そして次に「すみれ」の生い立ちが詳しく語られる。

人々を虜にするハンサムなパパの登場だ…



つづく





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