深読み_スプートニクの恋人_第11話あ

『深読み 村上春樹 スプートニクの恋人』第11話「夜明けのMEW」


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スナックふかよみ にて


で、岡江君は… 佳世実ちゃんと付き合ったの?

・・・・・

佳世実ちゃんは…

男の人が… ダメなの…

え?

佳世実ちゃんは、レズビアンなのよ…

マジで?

岡江クンは、それがわかっているのに、佳世実ちゃんのことが忘れられないの…

ずっと心の中で想い続けているのよ…

あたしと二人でいる時も、岡江クンはあたしといるんじゃなくて…

佳世実ちゃんといる…

なんかヤバいこと聞いちまったな、俺たち…

あっ!岡江君!?

えっ!?


・・・・・


岡江君!大丈夫か!?

はっ!

あれ? 僕は…

ゴクリ…

マジかよ… 頭が…

頭?

これで見るといい…

(ミラーモードにしたスマホを見せる)

え? これは…

人は、あまりにもストレスフルな出来事があると…

一瞬で髪の毛が白くなってしまうことがあるといいます…

あたし… ずっと我慢してきたのに…

なんで今さら言っちゃったんだろ…

ごめんね岡江クン…

いいんだよ。深代ママは悪くない…

本当のことだから…

こちらこそ、いろいろ… ごめん…

人が人を好きになることには、理屈などありません…

だからそれで誰かが悲しむことになっても、こればっかりは誰のせいでもないのです…

グスン…

ありがとう、春木さん…

歌ってスッキリしなよ。

俺がギター弾いてやるからさ…

うん…

ありがとう、カヅオさん…

じゃあ、いくぞ。



あ~スッキリした…

やっぱり、歌っていいね…

・・・・・

おい!また岡江君が!

ええ!?

ブツブツブツブツ…

どうやら、さっきとは様子が違うようです…

はっ!

そうか… そういうことだったのか…

そういうことって?

「パジャマ」だよ。

パジャマ?

『夜明けのMEW』の歌詞って、『スプートニクの恋人』っぽくない?

え? 

そう言われてみれば…

MEWとミュウだし…

愛してるのに別れなきゃいけない二人は、ちょっとレズのカップルみたいな感じもする…

「子猫の姿勢」とかしてるし…

間違いなく村上春樹は『夜明けのMEW』を元ネタに使っている…

『スプートニクの恋人』には『夜明けのMEW』の歌詞が落とし込まれているんだ…

でもなぜ村上春樹は『夜明けのMEW』を?

だからその理由が「パジャマ」なんだよ。

突拍子もない話すぎて、全然わかんない。

来た来た。やっぱり岡江君はこうでなくちゃ(笑)

実は『夜明けのMEW』の歌詞は「パジャマみたいな服を着た有名人」の「ある夜の物語」になっているんだ。

パジャマみたいな服を着た有名人?

まず1番の冒頭では、パジャマみたいな服を着た有名人である「君」が、夜に子猫の姿勢でサヨナラを待っていた…

そのサヨナラは「誰が悪いわけでも誰のせいでもなくて」と説明される…

そして、別れを受け入れた「君」に対し「僕」が「愛をごめんね」と繰り返す…

「僕」は「もっともっとキスをすればよかった」と悔やみ、「君を全て知っていると思っていた」と嘆くんだ…

ちょっと待って…

これって、もしかして…

そう。

この歌の「君」とはイエスのこと…

そして「僕」とは、ユダ…

確かに全部あてはまってる…

2番では「シェードを開けた分だけ日差しが差す」と歌われる。

これは松明やランタンの灯りでイエスが照らされたことを指しているね…

そして「君」が「強がり」を言う。

これはイエスが逮捕される際に言ったセリフのことだ。

「父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」

確かに「強がり」だわ…

だってイエスは直前まで全身から血の汗を流して「この杯を去らせてください」と祈ってたんだもん…

そして「君」と「僕」が「自由でいよう」と語っていたことが明かされる。

これは最後の晩餐の時にイエスがユダに語ったセリフのことだ…

「しようとしていることを、するがよい」

うまい。やっぱ秋元康は天才だわ。

そして「僕」は「君」のことを「世界中でたった一人」と歌う…

「きっときっと、きっときっと」と力いっぱい強調して…

そりゃそうよね…

全人類の原罪を背負って死ねる人は、世界中でたったひとり、イエスしかいないんだもん…

・・・・・

村上春樹は気付いていたはず…

「パジャマ」という言葉で始まるこの『夜明けのMEW』という歌が、「イエスの最後の夜」のことを歌ったものであることを…

そしてそれは、偶然にもサリンジャーの『THE CATCHER IN THE RYE(ライ麦畑でつかまえて)』と全く同じ手法だった…

え?

実はサリンジャーも「パジャマ」をキーワードに使って「イエスの最後の夜」を描いているんだよね。

ラストシーンの前の夜、主人公ホールデンとその妹フィービーのやりとりが描かれるシーンだ。

『夜明けのMEW』を作詞した秋元康がそこまで意識して作ったかどうかはわからないけど、その一致を村上春樹は面白いと感じたに違いない…

だから『スプートニクの恋人』に歌詞を丸ごと落とし込んだんだろう…

そういえば、映画『COMING THROUGH THE RYE(ライ麦畑で出会ったら)』でも、サリンジャーはパジャマについて厳しく言及してたな。

「パジャマを着た女優がフィービーと呼ばれた時点で、それは解釈にあたるからダメだ」と…

は? ただ役者が衣装を着て演じることに対して?

それを「解釈にあたる」だなんて、どうかしてるわ。

自分が小説の中でパジャマを着せたくせに。

『THE CATCHER IN THE RYE』の中では「パジャマ姿の少女フィービー」は「パジャマみたいな服を着たイエス」の記号なんだよ。

言葉や文章ではそれが成立するんだけど、ビジュアル化してしまうと「パジャマ姿の少女フィービー」にしかならない。

だからサリンジャーは『THE CATCHER IN THE RYE』のビジュアル化を頑なに拒み続けたというわけだ。

映画『COMING THROUGH THE RYE(ライ麦畑で出会ったら)』には、サリンジャーの熱弁シーンがあるんだけど、これはサリンジャー自身が『THE CATCHER IN THE RYE』がどういう作品なのかということを語っているに等しい内容なんだよね…

映画の脚本と監督を務めたジェームズ・S・サドウィズの若き日の姿であるジェイミー君は、『THE CATCHER IN THE RYE』舞台化の許可を得るためにサリンジャーに会いに行った…

そしてこんな会話が交わされる…


ジェ「ライ麦畑を戯曲化しました」

サリ「それは最悪のアイデアだ。ライ麦畑は読者が頭の中で楽しむように作られている。そんなもの成功するわけがない」

ジェ「セリフも全て小説内の言葉通りです。演出家に対しても、余計な解釈は一切加えるなと明記しました」

サリ「そんなことは不可能だ。トレンチコートを着て赤いハンチング帽を被った俳優が登場し、彼がホールデン・コールフィールドと呼ばれたら、その時点で解釈にあたる。パジャマを着た女優が登場し、彼女がフィービーと呼ばれたら、それもすでに解釈してしまっていることになる。演じること自体が解釈なのだ」

ジェ「でも作品を映画にすることを解釈とは呼びませんよね」

サリ「何が言いたい?」

ジェ「僕は自分の感じたことを皆に伝えたいんです。皆にホールデン・コールフィールドという人間を知ってもらいたいんです。まだ彼のことを知らない人たちに」

サリ「君はホールデン・コールフィールドが何者なのか知っているのか?」

ジェ「はい、もちろん」


もちろん劇中のジェイミー君は「ホールデンの正体」を知らない。

だが、監督のサドウィズは知っている。

どういうこと?

若き日のジェームズ・S・サドウィズは、サリンジャー本人から『THE CATCHER IN THE RYE』の「解釈」を禁じられたんだ。

だけどサドウィズは「解釈」することを諦めきれなかった。

だから40年後にこの映画を作ったというわけ。若き日の自分を描いた自伝的映画という体裁でね。

映画のセリフやストーリーは『THE CATCHER IN THE RYE』そのもの。サリンジャーが禁じた「解釈」によるビジュアル化になっているんだ。

つまりこの『COMING THROUGH THE RYE(ライ麦畑で出会ったら)』という映画は、サドウィズ版『THE CATCHER IN THE RYE』というわけ。

『スプートニクの恋人』が、村上春樹版『THE CATCHER IN THE RYE』だったみたいに?

その通り。

『夜明けのMEW』の「パジャマ」から、ここまで話が展開するとは思わなかったぞ。

しかし作家というのは、ひとつのキャラクターの中に、様々な意味を込めたり仕掛けを施すもんなんだな…

感心しちまうぜ。なあ、春木…

う、うむ…

では『スプートニクの恋人』チャプター1の続きに戻りましょう…

そうそう。まだチャプター1の半分くらいだった。

まだまだ先は長いわね(笑)



つづく




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