深読み_スプートニクの恋人_第9話1

『深読み 村上春樹 スプートニクの恋人』第9話「魔女の乳首と、冷えたキュウリ」



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フランス、ブルゴーニュ


あなた、名前は?

私… 花笠…

花笠クリスティといいます…

あたしは佳世実。坂本佳世実。どうぞよろしく。

こちらこそ… 佳世実さん…

だけど凄いわね、あなた。スペイン語がペラペラで。

私、アメリカで10年働いていたんです。

スペイン語は第二公用語みたいなものだったから…

そう…

ところで、まだ約束の時間まで5時間もあるけど、どうしようかしら…

あなたは、このへんに宿があるの?

いえ… 私まだ今夜の宿を決めてなくて…

行き当たりばったりの旅だから…

あら、そうなの。

それなら、あたしの泊まってるホテルに来ない?

え?

あたしの泊まってるホテル、招待されたディナーの店とは目と鼻の先だし。

こじんまりとした、いいホテルなの。とっても居心地のいいカフェもあるのよ。

お茶でもしながら時間つぶしましょ。ね?

あ、はい… 私なんかが居てお邪魔でなければ…

ふふふ。ところで、あなた…

そのバックパックの中に、ディナーに着ていくような服は入ってて?

いえ… それが…

安宿を転々とする貧乏旅行だから、余所行きの服は必要ないと思って…

じゃあ、あたしにプレゼントさせて頂戴。

ホテルにちょっといい感じのブティックがあるの。

え? そんな悪いです… 自分で買いますから…

いいの。通訳のギャラだと思って。

わかりました… 

それじゃあ、お言葉に甘えて…




佳世実のホテル カフェ


うん。似合ってる。可愛いわよ。

ありがとうございます、佳世実さん…

羨ましい。肌も瑞々しくて…

ちなみにあなた、おいくつ?

見たところ… 二十二三ってとこかしらね?

そんな(笑) 私、もう33なんですよ。

あら、そう。あたしと17しか違わないんだ。

え?

佳世実さん… 50…?

見えないですね…

すごく… お綺麗だし… 私のちょっと上くらいかと思ってました…

ふふふ。どうもありがとう。

さあ、コーヒーが冷めちゃうわよ。遠慮しないで飲んで頂戴。

はい、いただきます…

ゴクリ…

!?

かなり濃いでしょ、ここのコーヒー。

は、はい… ちょっとビックリしました…

ここの売りなの。

「悪魔の汗みたいに濃いコーヒー」なんですって。

面白いわよね。

悪魔の汗… ですか?

コーヒーをそんなふうに喩えるのって、初めて聞きました…

なにか… 別の意味が、あるのかもね…

え?

ところで、あなたの花笠クリスティって名前…

ちょっと出来過ぎてる感じがするけど、本名なの?

いえ…

いいのよ。言いたくなかったら。

私の名前…

「クリ」っていうんです。花笠クリです。

クリ… ちゃん?

カタカナ2文字なんて、昔のおばあちゃんみたいな名前ですよね…

私、山形の超ド田舎の生まれで… 両親もちょっと変わってて…

「クリ」という名前が嫌いだから「クリスティ」なんて名乗ってるの?

はい…

子供の頃… この名前のせいで…

男子から… すごくいじめられて…

ふふふ。「悪魔の乳首」ね。

え?

「クリトリス~!」って馬鹿にされたんでしょ?

デリカシーの欠片も無いわよね…

男って、だから嫌い…

でも、よく「悪魔の乳首」を御存じで…

あたしね、中世キリスト教史に興味があって、昔いろいろ調べたことがあったの。

魔女狩りとか、魔女裁判とか…

1589年… イギリス…

そう。

裕福な家の10歳の少女が、とある婦人を相手に起こした魔女裁判…

通称「悪魔の乳首」事件…

魔女として処刑された婦人の陰核が大きく隆起していたのを見て、人々は恐れおののいたんですよね…

まさしくあれは「悪魔の乳首」だと…

当時、魔女には「3つの乳首」があると信じられていた…

両乳房についている2つの乳首…

そしてもう1つは、悪魔の子ルシファーに乳を飲ませるためについている、第三の乳首…

普段の魔女裁判では、誰の身体にも付いてるような「アザ」や「できもの」を「第三の乳首」だとでっち上げて処刑していたんだけど、この時は「ついに魔女の乳首を発見した!」と大騒ぎになったんですよね…

当時は、女性の陰核が男性器みたいに勃起することは、世間的に知られていなかったから…

そう…

かつて女性は、性行為で快楽を感じてはいけないとされていた…

性行為とは、聖書で「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とあるように、生殖のための神聖な行為であって、快楽を覚えることは罪だとされてきたの…

だから人々は、死後硬直かなにかで隆起していたクリトリスを見て、本当に「悪魔の乳首」だと勘違いしてしまったわけね…

今でも「女性は快楽を覚えちゃいけない」としている文化がありますよね… アフリカとかで…

ホント… ひどい話…

だけどそれってアフリカとかだけの話じゃないのよね…

いまだに世界の多くの地域で、女は男の付属品扱いされている…

女は自己主張してはいけない、欲望を表に出してはいけない、男にとって都合のいい女像を演じなければいけない…

そんなふうに考えてる男たちが、信じられないくらいに多くて…

わかります。

まったく、もう…

女を桟橋の金具くらいにしか考えてないんでしょうね…

それ、うまいですね。

え?

「clitoris(クリトリス)」ってギリシャ語の「κλειτορίς(クレイトリス)」から来ているんですけど…

その意味は、穴を塞ぐための「掛け金・鍵」なんです。

あら、そうだったの? 知らなかった。

というか、あなたギリシャ語もできるわけ?

ちょっと、かじった程度ですけど…

ふふふ。可愛いだけじゃなくて、あなた、お利口さんなのね。

あたしの思った通り。

いえ… そんな…

それに優しい。

あたしが、知らなかったとはいえ「女を桟橋の金具~」と親父ギャグを言ってしまったことに対し「うまいです」と言ってくれたわ…

「魔女の乳首みたいに寒い」と突っ込むんじゃなくて。

それ『ライ麦畑でつかまえて』の冒頭で語り手の「僕」が言った「cold as a witch's teat」ですね(笑)

そうそう、それよ。思い出した。

何がですか?

ここのコーヒー。

「悪魔の汗みたいに濃いコーヒー」って「cold as a witch's teat」のジョークなのよ。

「tea」を「coffee」に置き換えたのね。

そしてさらに「witch's teat」と韻を踏んで「devil's sweat」なのよ。

このジョークを考えた人、言葉をよくわかってる…

あたし、感動しちゃった…

うふふ。

あら? 何がおかしくて?

佳世実さんって、面白い…

すっごくカッコよくて、常にクールな雰囲気を漂わせているのに、頭の中で考えてることが変 (笑)

まさに「cool as a cucumber」です。

ふふふ。どうもありがと。

あたし、キュウリは大好き…

今日もキュウリ色した服だし…

でもなんで「クール」であることを「キュウリみたいに冷静沈着」って言うんでしょうね?

英語って不思議。

すぐにがっつくくせに長続きしないダメな男たちと違って、キュウリはずっと落ち着いてるからじゃない?

それに…

冷蔵庫で冷やしたキュウリは… 最高にクール…

ああ、それですそれ!

夏といえば、やっぱり冷えたキュウリの丸かじり!

あ~、なんだか日本を思い出しちゃった… こっちには日本のキュウリないのかなあ…

私にとっては今、どんなフランス料理よりも、冷えた丸ごとキュウリが一番の御馳走かも!(笑)

ふふふ…

夢の御馳走にありつけるといいわね…

さて、もうすぐ約束の時間。

あたし、部屋でイブニングドレスに着替えてくるから、少し待っててもらえる?

このへんを散策しててもよくてよ。ここのお庭、すごくきれいだから。

はい。

じゃあ、またあとでね。

あたしの可愛い子猫ちゃん…



つづく








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