日の名残り第69話1

「決して聴こえない主題の謎」~『夜想曲集』#3「モールバンヒルズ」~カズオ・イシグロ徹底解剖・第69話

そして、歌のことを考えろ、と自分に命じた。まだしっくりこないパッセージのことを…

おしまい。

え?それでおしまい?

なんか妙なハナシやったな…

第1話や第2話に比べると、ちょっと空気感が違う気がする…

あれだけたくさん登場した歌のタイトルがひとつも出てこなかったし…

主人公の名前も出て来なかったね!

ずっと「ぼく」のままだった。

第1話は「ヤネク(ヤン)」で第2話は「レイモンド(レイ)」って名前があったのに。

あと、ミュージカル映画の話題も出て来なかったな。

第1話と第2話には出てきたのに。

ミュージシャンの名前はいくつか出てきとったで。

ABBA、ビートルズ、カーペンターズ…

そんでクラシック音楽のヤナーチェクとボーン・ウィリアムズ。

まあABBA以外は「おまけ」みたいな感じやったなけどな。

ヤナーチェクとボーン・ウィリアムズって誰?

レオス・ヤナーチェクは、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家だ。

Leos Janacek(1854-1928)

もしかしたら第1話の主人公ヤネクって、ヤナーチェクがちょっと入ってるんじゃないか?

名前が似てるし、ヤネクもチェコ出身っぽかったし…

ありえる。

太宰の『メリイクリスマス』じゃないけど。

そしてレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ。

こちらはホルストと並び称されるイギリスの作曲家だ。

Ralph Vaughan Williams(1872-1958)

こっちは第2話の主人公レイのことっぽいな。

名前が「レイフ」だし…

ねえねえ。

「Ralph」って普通「ラルフ」って読むんじゃないの?

なんで「レイフ」なんだ?

古語の英語では「Ralph」を「レイフ」と発音したんだよ。

イギリスの古い民謡を愛したボーン・ウィリアムズは、昔ながらの発音に愛着があったんだ。

日本でゆうたら、旧仮名遣いにこだわる人みたいなもんやな。

あと、「デュッセルドルフ」が気になったな…

唐突に出てきて、明らかに不自然な使われ方をしていた…

「スイス人」夫婦の息子が住んでいた町だね。

演奏ツアーでデュッセルドルフを訪れた夫婦が連絡をしても、息子は徹底して無視するんだ。

なんだろうね、これ。

何の意味があったんだろう?

自由で先進的な町デュッセルドルフで暮らす息子にとって、「古い」衣装を着て「古い」音楽を演奏する両親は、関わり合いたくない存在だったんだろう。

どゆこと?

デュッセルドルフは「クラウトロック」の中心地だったからね。

クラウトロック?

ああ!そうか!

イギリス人である主人公の「ぼく」は、「スイス人」夫婦のドイツ語訛りを聞いて「クラウト夫妻」と渾名をつけた。

これは貧しかったドイツ人が「ザウアークラウト(キャベツの酢漬け)」ばかり食べていたことを揶揄した「蔑称」で、70年代前半頃のイギリス人は、ドイツのロックを「クラウトロック(キャベツロック)」と名付け、半分馬鹿にしていたんだ。

「めんたいロック」みたいなもんか。

「めんたいロック」は蔑称ちゃうやろ。

たとえばアメリカ人が日本のロックを「たくわんロック」と呼んだり、韓国のロックを「キムチロック」と呼ぶような感じや。

だけどデュッセルドルフから「クラフトワーク」が現れ、彼らの先進的な音楽が世界に衝撃を与えたことにより、「クラウトロック」という言葉からマイナスイメージが消え、「イケてる音楽の代名詞」みたいになったんだ。

日本でもYMOが大きな影響を受けたことで知られる。坂本龍一が大好きだったらしい。

へえ~、そうなんだ!

だけど、なんでABBAだけ何度も名前が出てきたんだろう?

他の音楽関係の固有名詞は一度っきりしか出ないのに、ABBAだけ特別感あったよね。

ABBA

「あるミュージカル」のためだろう。

え?

小説内では「ABBAの男のほう」だけが強調されるんだよね。

これってABBAの男性二人「ベニー・アンダーソンとビョルン・ウルヴァース」が作ったミュージカル『チェス』(1984)のことを想起させるためだと思うんだ。

Murray Head《One Night In Bangkok》
from CHESS

おお、確かにあったな『チェス』っちゅうコンセプトアルバムも。

せやけど日本じゃ売れんかった。

二人の天才チェスプレーヤーが、東西陣営を代表して戦うという設定なんだ。

実在の人物ボビー・フィッシャーがモデルだね。

Bobby Fischer(1943 - 2008)

1980年前後の東西冷戦下における政治ネタや、往年のミュージカルネタ満載のアルバムだったから、日本の一般的ABBAファンには、ちょっと難しすぎたのかもしれない。

曲を書いたのはABBAの男二人だが、詞をつけたのは、あのティム・ライスだぞ。

てぃむらいす?

誰?

存命中の作詞家の中で、最も偉大な作詞家と言っていい人物だよ。

"Tim" Rice(1944 ‐)

彼は1970年に盟友アンドリュー・ロイド・ウェバーと共に作った『ジーザス・クライスト・スーパースター』で世界の度肝を抜いた。

Carl Anderson《Superstar》~Jesus Christ Superstar

そして1976年には、再びアンドリュー・ロイド・ウェバーと『エビータ』を発表し、これまた世界の度肝を抜く。

《EVITA》

どっちもミュージカル史上に名を残す超名作やんけ。

ウィットとユーモアと社会風刺に富んで、知的スリル満点や。

そして90年代に入ると、それまで低迷期にあったディズニー大躍進の要となる。

『美女と野獣』『アラジン』など関わった作品は数多いが、何と言っても『ライオンキング』に尽きる。

この作品は、いろんな意味で大きなインパクトを与えた…

《THE LION KING》

これもティム・ライスなのか!

あらゆる映画・演劇の中で歴代最高の売上を記録した作品で、今もなお世界中で上演され続けている…

人類史上最高にヒットした興行だ。

そしておそらく、今後も抜かれることは無いだろう…

イシグロは80年代までのティム・ライスが好きっぽいけどな。

さて、ABBAの「男のほう」を強調したイシグロの狙いは、ミュージカル『チェス』を想起させることだ。

小説内で80年代の東西冷戦をイメージさせたかったんだね。

この物語が「1989年」を舞台にしたものだから…

なんで?

誰もが「自分の解釈」を語りたくなる「最新のバットマン映画」って、2008年のクリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』のことじゃないの?

『夜想曲集』って2009年の発表でしょ?

どう考えても『ダークナイト』のことじゃんか。

違うよ。

1989年公開のティム・バートン版『バットマン』のことなんだよ。

マイケル・キートンとジャック・ニコルソンが主演して、プリンスが音楽を書いたやつ。

『ダークナイト』同様に、当時はその斬新な描き方が話題になったんだ。

Prince《Batdance》

確かにこっちだな。

主人公の「ぼく」は、ロンドンのウェストエンドのメガストアで「CD」を買えずに、ただ眺めるだけだった…

これはどう考えても2008年の描写ではない。

ヴァージンやHMVなどメガストア全盛時代は80年代から90年代前半までだし、やっぱり1989年のことだろうな…

ビートルズやカーペンターズが、そこまで「大昔」のことではない感じだったしな。

せやったな。

あとは「エルガー」っちゅう名前が何遍も出てきおった。

舞台のモールバンヒルズは、イギリスの作曲家エルガーゆかりの地みたいや。

Edward William Elgar(1857 - 1934)

ここが非常に重要なポイントなんだ。

「エルガー」という人物に、短編集『夜想曲集』の大きな秘密が隠されていると言っていい…

なぬ!?

エルガーには、彼の名を一躍有名にした『エニグマ変奏曲』という曲がある。

「enigma」とはギリシャ語で「謎」という意味。 

主題が決して表に現れることなく、それぞれの小曲の中に秘密のアレンジで隠されているという、極めて斬新な変奏曲集だね。

その中でも特に有名な小曲『ニムロッド』を聴いてもらおうか。

Elgar 'Nimrod' from Enigma Variations
by Paul Barton

もしかして『夜想曲集』の第1話や第2話に「隠されたテーマ」や「聴こえない歌」があったのは、この『エニグマ』を意識してのこと…

その通り。

イシグロはエルガーの『エニグマ』を強く意識して、この『夜想曲集』を書いていると思うんだ。

第3話で「エルガー」の名前を出したのは、読者にヒントを与えるためだったんだね。

これまで僕が解説してきた古いミュージカルやジャズナンバーでは、さり気なく「Cメロ」に「タネ明かし」が施されていた。

イシグロはこの第3話『モールバンヒルズ』で、その手法を踏襲したんだ。

エルガーは『エニグマ変奏曲』に、簡単な解説を寄せている。

「すべての変奏の基盤となっている、もう1つの聞き取ることのできない主題が存在する」

さらに、こうも述べている。

その謎については説明しまい。その「陰の声」については想像できないようにしておこう。諸君に警告しておくが、変奏と主題の明らかなつながりは、しばしば、ごくわずかなテクスチュアの問題でしかない。もっと言えば、曲集全体を、もう1つのより大きな主題が貫いているのだが、それは演奏されないのである。(中略)かくて基本主題は、その後の展開においてさえ、決して登場せず、(中略)その主要な性格は決して表舞台には出てこない。

いったいどんな主題なの?

まだよくわかっていないんだ。

昔から仮説はたくさん出てきているんだけどね。

その主題が「ある有名な旋律」だとも言われているし、「エロチックな意味が隠されている」とも言われている。

エロチック!?イシグロそのまんまやんけ(笑)

もしかすると『夜想曲集』に限らんのとちゃうか?

『日の名残り』にも「隠された主題」があったやんけ。主人公の「隠れユダヤ人」「隠れ同性愛者」っちゅう主題が。

イシグロ作品はほとんどそうなってんのとちゃう?

かもね…

他の作品もそうなのかもしれない。

「聴こえない歌」か…

第3話では主人公の「ぼく」が「2曲」歌うよな…

でもその歌がどんなものであるのか、読者には具体的に提示されない…

1曲は「スイス人」の夫婦が気に入った未完成の歌やったな。

そんでもう1曲は、いつもオーディションで歌うやつや。

どんな歌だったんだろうね?

まあ「ぼく」のオリジナル曲だから、さすがのおかえもんも紹介のしようがないだろうけど。

そんなことないよ。

僕は「2曲」がどんな歌だったか、ほぼ特定できた。

ええ~!?マジで!?

あの夫婦が気に入ったほうは、きっとコレだね。

《Tomorrow Belongs To Me》from CABARET

なんだこれ?

きゃ、きゃ、キャバレーって…

1966年のブロードウェイミュージカルをもとに作られた映画『キャバレー』だ。

ジュディー・ガーランドの娘ライザ・ミネリの大出世作だな。

当時世界に大きな衝撃を与えた。特にショービズ界に与えた影響は計り知れない。この映画が無ければ『ロッキー・ホラー・ショー』も誕生しなかっただろう。

そして主人公の「ぼく」がいつもオーディションでやる歌…

たぶんコレのことだと思うな。

 Elgar《Land of Hope and Glory》by Vera Lynn

これ超有名な歌じゃんか!

この『希望と栄光の国』は、コンサートのみならず、サッカーやラグビーなどイギリスのスポーツの試合でも欠かせない歌だな。

『God Save the Queen(女王陛下万歳)』が連合王国(UK)の事実上の国歌なので、こちらをイングランドの国歌にしようという動きもあるくらいだ。

エルガーの代表作『威風堂々』の1番の主旋律に歌詞を付けたものだよな…

でもなんでこの2曲だと特定できるんだ?

それはこの短編『Malvern Hills(モールバンヒルズ)』を注意深く読んでみるとわかるんだよ。

順を追って解説しよう…



——つづく——



『夜想曲集』(@Amazon)
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳


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