深読み_スプートニクの恋人_第14話あ

『深読み 村上春樹 スプートニクの恋人』第14話「ははうえさま」


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スナックふかよみ にて


「何だかよくわからない存在である聖霊のあなたに聞いたのが間違いだったわ。天の父しか知らないことなのに…」ってことね(笑)

そういうこと。おもしろいよね、村上春樹のジョークは。

そして次に「すみれ」の生い立ちが詳しく語られる。

人々を虜にするハンサムなパパの登場だ…

 すみれは茅ヶ崎で生まれた。家は海岸のすぐ近くにあって、ときどき砂混じりの風が窓ガラスにあたって乾いた音を立てた。父親は横浜市内で歯科医を開業している。非常にハンサムな人で、とくに鼻筋は『白い恐怖』の頃のグレゴリー・ペックを髣髴(ほうふつ)とさせた。残念ながら――と本人は言う――すみれはその鼻を受け継いでいない。彼女の弟も受け継いでいない。

ここもやっぱり臭うの?

もちろん。『THE CATCHER IN THE RYE』臭がプンプンするね。

・・・・・

まず、すみれの父親の歯科医院は「横浜市内」にあると語られる。

しかし横浜市は巨大だ。港北、鶴見、関内、みなとみらい、保土ヶ谷、磯子、戸塚など様々な地域があるよね。

なぜ村上春樹は具体的な地名を出さなかったのだろうか?

「横浜市内」以外は、国立、井の頭公園、吉祥寺、表参道、赤坂、広尾、杉並、津田沼、茅ケ崎など細かい地名で説明されるのに…

そういえば、そうね…

また「プリンスホテル」の名前を隠した時みたいな理由があるってこと?

間違いない。

すみれの父親の歯科医院は「横浜市金沢区」にあったんだよ。

金沢八景とか金沢文庫とか八景島シーパラダイスがあるところ?

なんで地名を伏せる必要があったわけ?

すみれの実家は茅ヶ崎の海岸沿いにある。

そこから金沢区に車で通うとなると、最初は海沿いの道だけど、鎌倉から「ある県道」を通ることになるんだ。

山沿いを走る神奈川県道「204号金沢鎌倉線」をね…

あっ!204号線!

『THE CATCHER IN THE RYE(ライ麦畑でつかまえて)』のチャプター1に出て来た道路じゃない!

そう。

だから村上春樹は「金沢区」という地名を伏せた。

読者の頭の中で茅ヶ崎と金沢区がつながってしまうと「204号線」が浮かび上がってきてしまうからね…

神奈川県民かつ道路事情に詳しい人じゃないと浮かび上がってこないと思うけど…

作家という生き物は、念には念を入れるものなんだよ。

だから『スプートニクの恋人』の発表から20年もの間、誰も気付かなかったんだ…

村上春樹には脱帽です… 

・・・・・

ところでさ、なんでグレゴリー・ペックなの?

語り手の「ぼく」って20代半ばだから、1970年代生まれでしょ?

グレゴリー・ペックって1930~40年代に活躍した俳優よ。

例えがちょっと古過ぎない?

Gregory Peck (1916 - 2003)

重要なのは、例に出される映画『白い恐怖』のほうだ。

グレゴリー・ペックという名前ですら若い人は知らないのに、なんで『白い恐怖』なんてマイナーな映画なの?

ふつう『ローマの休日』じゃない?

理由は2つある。

まず『白い恐怖』が日本で公開されたのが「1951年」だから。

サリンジャーが『THE CATCHER IN THE RYE』を発表したのも「1951年」なんだ。

なるほど。『THE CATCHER IN THE RYE』を想起させるためってわけね。

そして、もうひとつの理由…

それは映画の内容だ。

内容?

映画『白い恐怖』は原題を『SPELLBOUND』という。

「夢うつつ」とか「人の意識や注意を固定させる」という意味なんだ。

つまり「嘘だらけ」ということ…

え?

映画の舞台は精神科病院。

イングリッド・バーグマン演じるヒロインは精神分析医で、グレゴリー・ペック演じる主人公は医院長なんだ。

ちょっと… それって…

そしてグレゴリー・ペック演じる主人公は、本当は精神科医ではない。

彼は病気で、彼が演じている人物像は、すべて「嘘」なんだ…

マジで!?

これって… 実は舞台が精神科病院で、主人公が精神分析医に嘘ばかり並べていた『THE CATCHER IN THE RYE』みたいじゃん…

まさに『THE CATCHER IN THE RYE』を彷彿とさせるよね。

そしてグレゴリー・ペック演じる主人公は「十字架模様」を見ると発作を起こすという設定になっている。

物語に聖書やキリスト教のモチーフがふんだんに使われているんだ。

そして「ぼく」が語る、すみれの父親の「立派な鼻」…

やたらと「立派な鼻」について褒めちぎる…

強調される「立派な鼻」といえば…

ユダヤ人のステレオタイプ・イメージ…

カズオ・イシグロの『日の名残り』でもこのネタは使われていた。

そしてこんな描写が続く…

 当然のことながらすみれのとびっきりなハンサムな父親は、横浜市をとりまく地域に住む、歯になんらかの障害を抱えた女性たちのあいだで神話的な人気をたもっていた。彼は診療所ではキャップを深くかぶり、大きなマスクをつけていた。患者に見えるのは、彼の一対の目と、一対の耳だけだった。

「イエス」が投影された「すみれ」の「父親」といったら…

言っちゃってるじゃんね、村上春樹。「神話的」って(笑)

だね。

白いマスクで顔の下半分が隠れている「すみれの父親」とは、「天の父」こと神ヤハウェだ。

ミケランジェロ『アダムの創造』より

あっ!

性欲問答に出て来た「すみれの脳味噌のスペースの大部分を占有していた」は、これの前フリだったのね!

その通り。

ミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いた「天の父」とその背景は、なぜか「人間の脳」の形をしている。

人間の脳味噌の中に創造主がいるという構図になっているんだよね…

すっげえエッジの効いたメッセージだよな。

これをバチカンの心臓部システィナ礼拝堂に描くとはマジ驚くわ。

なあ春木、お前だったらこんな度胸あるか?

相手がバチカンだろうとエルサレムだろうと、わたしは己の信念を貫きます…

深代ママ!ブランディー・エッグノッグおかわり!

卵ダブルで!

はいはい。待っててね…

じゃあ俺、バナナ・ダイキリ!

もう!めんどくさいもんばっか頼まないでよ!

ひでえ店だな。ちゃんと仕事しろよ。

言ったわね!じゃあ、やってやるわよ!

あまりのキュートさに悶絶しても知らないから!

やべえ…かわいい…イルカさんにキスしたい…

おっと!

危うくサングラス外すとこだったぜ…

さて次は、すみれを産んだ母親のことが語られる。

すみれが3歳の時に亡くなっていて、すみれは母の記憶がまったくない。

だからすみれは母の写真を見て、そのイメージを脳に植え付けようとするんだけど、なぜか母の顔を覚えることが出来ないんだ。

写真を見ても記憶に全く残らないって変じゃない?

さすがに少しくらいは顔を覚えるでしょ。

いや、すみれは正しい。

そもそも「すみれを産んだ母親」なんて存在しないんだ。

イメージを抱けるわけがない。

え?

だって「天の父」に「奥さん」なんていないから。

え? そういうことなの?

そうだよ。

そして「ぼく」は「すみれ」に対して軽くジョークを入れる。

夢の中どころか、まっ昼間の一本道ですれちがったって、気がつかないかもしれない。

わかるかな?

ジョーク?

ここでは「すみれ」は「イエス」でしょ?

イエスが真っ昼間の一本道ですれ違うといえば…

あっ!わかった!

ローマからトンズラしようとして、真っ昼間の一本道でイエスとすれ違ってしまったペトロ「主よ、どこに行かれるのですか」ね!

『Quo vadis, Domine? 』

そしてすみれの父親が「すみれの母親」について語りたがらない人物であったことが説明される。

もともとがなにごとによらず多くを語らない人だったし、それに加えて生活のあらゆる局面において(あたかもそれが口内感染症の一種であるかのように)情緒的表現を避ける傾向があった。すみれの方も死んだ母親について父親に何かを尋ねたという記憶がない。

「生活のあらゆる局面において情緒的表現を避ける傾向があった」って、旧約聖書で神から指示される律法のことね。

生活のあらゆる局面における決まりごとが、すっごく事務的に羅列されているもん。

続けて「ぼく」は、すみれが一度だけ父親に質問したことがあると語る。

「わたしのお母さんはいったいどんな人だったの?」

ちょっと待ってよ。

直前に「すみれの方も死んだ母親について父親に何かを尋ねたという記憶がない」って言ったばかりじゃないの。

しっかり尋ねてるじゃん。超矛盾(笑)

矛盾じゃないんだな。

すみれは「死んだ母親」については一度も尋ねたことがない。

尋ねたのは「わたしのお母さん」についてなんだ。

はぁ? 一緒でしょ?

だからこう続くんだよ。超ウケるだろ?

父親はよそを向いて、しばらく考えていた。それから言った。「とても物覚えがよくて、字のうまいひとだった」

何が面白いの? 全然わかんない。

「天の父」は「イエス」の質問を「なぞなぞ」だと思ったんだよ。

はぁ?

だからしばらく考えて「とんち」で答えたんだ。

「とても物覚えがよくて、字のうまいひとだった」ってね。

どういうこと?

「イエス」の「生物学的な母親」はいないけど、そうじゃない「産みの親」はいるってことだよ。

神の子を代理出産した聖母マリアのこと?

違う。マリアは「とても物覚えがよくて、字のうまいひとだった」には当てはまらない。

他にもいるでしょ「生みの親」が。

いたっけ?

イエスの物語「新約聖書」の母体となったヘブライ聖書、つまりキリスト教でいうところの「旧約聖書」を書いた人だよ。

イエスの「わたしのお母さん」という「なぞかけ」に対し、天の父は「モーセ」を思い浮かべたんだ。

モーセを?

神が初めての共同作業でパートナーに選んだのがモーセだ。

モーセは神と力を合わせて『創世記』から始まる「モーセ五書」を作り上げたんだよね。

物覚えがよくなきゃ無理だし、字の上手さも重要ということ。

ああ!確かに!まさに「とんち」だわ!

そして「ぼく」は「すみれの父親」について、こう締めくくる。

ぼくは思うのだが、彼はそのとき幼い娘の心に深く残るなにかを語るべきだったのだ。彼女がそれを熱源にして、自らを温めていくことのできる滋養あふれた言葉を。この太陽系第三惑星における彼女のおそらくは根拠不確かな人生を、曲がりなりにも支えてくれる、軸となり柱ともなる言葉を。すみれはまっ白なノートの1ページめを広げてじっと待っていたのだ。でも残念ながら(というべきだろう、やはり)、すみれのハンサムな父親はそういうことのできる人ではなかった。

これは「天の父」が「子イエス」に対し「重要な言葉」を何も語らなかったことを言っている。

「聖霊」である「ぼく」は、それをちょっと可哀想だと言っているんだね。

イエスは「天の父」に呼び掛けたけど返事をもらえなかったから。

でも「ぼく」は、ちゃんとわかってるんだな。

三位一体説は「父と子と聖霊」のものであって「妻や母」の入る場所はないってことを。

そして、地上から子が呼びかけて、天から父が返事することは理論上難しいということを…

そういうことです。

なるほどね~

でもさ、村上春樹ってやっぱり凄いよね。

何でこんな面白いこと思いつくんだろう?

子どもの頃から「とんち」が利いた子だったのかな?

・・・・・

どうしたの春木さん? いつのまにかギターなんか抱えて…

亡き母のことを… 思い出してしまいました…

それと… PETROのことも…

ペトロ?

むかし国分寺にいた猫の名前です…

消えていなくなりました…

ふーん。よっぽど忘れられない猫だったのね。

それでは歌います…

ははうえさま… 猫のPETRO…

天国で聴いてください…




つづく





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