ティファニーで朝食を

日本人は全員「ティファニーで朝食を」採るべきだ、みたいな雑文

「ティファニーで朝食を」とったことがあるか?

 1950年代、明け方のニューヨーク。空に白みが掛かる時間帯のせいか、車通りも人通りも見当たらない。劇中歌の「ムーン・リバー」が流れ、一台の黄色いタクシーが五番街に停車する。タクシーから黒のドレスを華麗に着こなしたオードリーヘップバーンが現れた。タクシーが停車したのは、あの「ティファニー」の目の前。パン屋さんの紙袋からクロワッサンとコーヒーを取り出し、ティファニーのウィンドウを眺めながら、サングラスかけ朝食を取る。満足そうに、どこか物憂げに。

 名作映画「ティファニーで朝食を」の冒頭を起こすとこんな感じだろう。もちろん、1960年あたりのアメリカ黄金時代のニューヨークの華やかな美しさやオードリーヘップバーンの魅力、劇中歌ムーン・リバーの切なさは文章ではとても表現できないものではある。あるいは、表現を試みることすら失礼にあたるかもしれない。筆舌尽くしがたい「美」がフィルムに焼かれている。

 「ティファニーで朝食を」という映画は、多くの人が知っていると思う。おそらく「名前を知っている人」が非常に多く、「実際観た人」が割合少ないような比較的古い名作によくある事例の一つである。それでも、オードリーヘップバーンが主役であることや、どうやらティファニーに縁のある話であることを考慮すると、「豪華でお洒落なティファニーのカフェで朝食を取ること」が重要な要素となるのかな?と予想する人が多いだろうな。ぼくもそうだったし。

 でも、違う。冒頭書いたように、当時ティファニーの中にも、ティファニーが見える位置にも朝食が取れるお店なんてなかった。だから、オードリーヘップバーンが演じるホリーも、ウィンドウの前で直立してパンを食べているのだ。文字面では華やかさとは無縁な描写だが、オードリーヘップバーンがやるとそれすら華美に映る。それでも、とても上品なシチュエーションとは言えないだろう。

 なぜホリーは、ティファニーで朝食を取るのか?作中ではこう本人が説明している。

赤い気分になったことある?
ブルーな気分は、ただ悲しいという気持ち。
赤い気分はわけもなく不安でたまらない気持ち。
そんなときはティファニーを見るの。
すると日常を忘れられる。
不安が消えるのよ。」

 ホリーは自由奔放天真爛漫で、普段豪華なメンバーを呼んでパーティーに明け暮れ、仕事も小説では娼婦、劇中では「トイレに行くときにチップとして50ドルもらう」などで生計を立ている。そんな中、突如不安でたまらない気持ちになるという。舞台のアメリカはニューヨークといば、1929年の世界恐慌で大きな社会的不安を抱えていた時代だったので、そういった漠然とした社会不安や人生そのものに対する漠然とした負の感情がどうしようもなく溢れ出すことが「赤い気分」なんだろうか。そんな「赤い気分」の時にティファニーに彼女は赴く。

 ティファニーの佇まいだけが、唯一彼女を安心させるのだ。日常の不安から離れられる時間を提供するんだ。パーティーもお小遣いをもらうことも一つの手段に過ぎず、ティファニーの高級感と親切心が本当の意味で彼女を癒す。現実で受けた傷をささやかに修復し、また日常に向き合うための一つの休憩所かあるいは安全基地かのように彼女は言う。

 映画では、自由を求める奔放な彼女はある作家の男性と「お金」ではなく愛で結ばれる兆しを見せる抱擁で締められる。ティファニーのような安心できる居場所を彼の中に見いだすことができたのだろうか。なんだかんだ、ティファニーに行くシーンは劇中でたった2回だけだった。彼と結ばれたあとは、もっと減るのかもしれない。

 そう思うと、ティファニーは一つの象徴にすぎなかったのだ。あくまでもホリーが欲していたのは自分の身を傾けられる居場所のようなもので、自由奔放に生きることと居場所を定めてしまうことの葛藤をうまく処理できずに「赤い気分」を抱き続けていたように思う。居場所の象徴としてのティファニー。間違いなく、それは彼女を幸福にするものだった。

 そう思うと、あらゆる日本人もティファニーで朝食を取るべきだ。

 ティファニーが個人的な居場所の象徴であり、「赤い気分」をやり過ごす過渡的なもの、あるいはもっと核心的なものであるのであれば。

 つまり、みんなが揃ってニューヨークへ渡航するべきだとか、最寄りのティファニーの前でクロワッサンを食べるべきだとか、そういう話がしたいのではない。もっと抽象的な話だ。つまり、ホリーにとってのティファニーのような、「赤い気分」を落ち着けてくれる場所の重要性と可能性の話だ。絶望や憂鬱に塗れたときに、足を向かわせるどこかがあることが大切なんだ。ホリーにとっては、たまたまティファニーだったに過ぎない。

 ぼくは「赤い気分」に比較的よくなる方だと思う。誰かと比較したことはないけれども、おそらく。そうでないと狼のフリをしてたぬきとして生き、文章を書くことなんてしないだろう。そんなややこしい自己療養の方法を取るやつは、「赤い気分」が多いに決まってる。「赤い気分」にならない人は、決まって文章を書かない。「赤い気分」は文章を認める上での水脈ですらある。不健全な水脈。

 ともかく、この世界には「赤い気分」でいられる場所が少なすぎるのだと思う。だからホリーはティファニーを求めた。ぼくは絶望したら川へ行く。それも、できるだけ大きな河川敷がいい。大阪の河川敷に座ると、視界にはビルの明かりが煌々としている。資本主義の象徴かのような煌々とした残業の光が騒めいている。

 川がいいのはこれからだ。資本主義のプラネタリウムを太く長い川が隔てるから、よい。まるであちら側とこちら側を分けるように、世界と自己を区別し孤独を肯定してくれる。カエルや名前もない虫の鳴き声が生命を感じさせ、歓迎してくれる。闇、川、街。この層の重なりは明確で、暗闇のなかにいる自分はあくまで川ではないし、もちろん街でもない。自分がどうしたって自分なんだという感覚が内側から湧いてくる。その感覚は「赤い気分」を有効に浄化する。

 そういえばこんな文章を書いていた。ホリーがパンとコーヒーを持ってティファニーへ通うように、ぼくは今夜も煙草とジッポを携えて川へ赴くんだな。きっと、誰かに理解される必要はない。自分がどんな「赤い気分」を抱いていて、それがどんな場所に行けば浄化されるのかは極端に個人的な問題だからだ。これを読んで川へ行っても、あるいはティファニーにいってもあなたの「赤い気分」が晴れるとは限らない。それくらい、個人的な問題なのだ。だから、誰にも理解されなくても大丈夫なんだ。

 「赤い気分」を理解しあうことが難しいように、ブルーな気分もイエローな気分もグリーンな気分も、人によって、もしくは関係性によっていくらでも変化するものだ。だから、ぼくたちは不安になる必要はない。感じたことは、感じていいものなんだ。そこに正解や傾向、一般的な美しさは存在しない。逆に言うと、どこまでも個人的なものこそ正しく美しいとも言える。そんなことに思いを巡らしながら、河原で紫煙をくぐらせる。


追伸 自分だけのティファニーを見つけたとしても、オードリーヘップバーンになれないです。なんだあの自由そのものみたいな美しさは。

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