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真実への探究心さえ、ぼくに機能不全を促す

 「ほんとうのことを知りたい」と、いつしか思うようになっていた。その願いというか祈りはほとんど偏執狂みたいに10代半ばからのぼくの思考と行動の多くを支配する鉱脈となり、今でもその根元にこびり付いた化石のように存在し続けている。

 真実とは大きく2つの方向性を与える。つまり、自己に関する真実と世界に関する真実だ。どこまでが自己で、どこまでは世界なのか、そういう可分な二項なのかどうかは、特に10代の時分には分かりかねた。今でも明確な結論めいたものは持ち合わせていないが、仮説の数ばかりはどうしようもなく積もっている。

 そのような真実への欲求は、人生を駆動させる類のものだと考えていた。しかし今、受け入れがたい腐臭(ぼくにとって、だ)を放つ一つの仮説が立ちはだかっている。真実への探究心は、ある意味ではぼくの人生への旅路を遮るものかもしれない、という仮説だ。そして、ほとんど確からしい。

 あまりにも都合の悪い仮説で、吐き気を催す。四半期と少しの人生の物語が突然輪郭を失ってしまったような、あるいは重大な核のようなものが消滅しかけているような、そんな恐怖がぼくを背後から睨みつけている。

 真実など知り得ないのかもしれない。そういう、決して知り得ない真理を追い求め、長く孤独な道を行くロマンスを人生の意味の一つの側面に見出し、それが活力となっていると確信めいた自信を持っていた。

 しかし、冷静に、客観的に、分析的に、人生を振り返るとどうだろう。もしかすると、その真実への欲求こそが何度もぼくを地の底まで降ろすこととなったし、傍からどう見てもうまくやっている時分においてすら、予測だにしないランダムさを持って周囲を混乱させてきた。真実への欲求はぼくが「社会」と折り合いをつけることを強く、明らかに妨げている。明確な悪意を持ってして。

 がたがたという音を立てて、自分という虚構を支えていた支柱が崩れようとしている。客観性という冷風にあてつけられて、雨戸のないボロ小屋はただ時間の経過と共に壊れていくのを待つことしかできない。湿気った薪がくべられた暖炉にマッチを擦って投げるも、むなしく、儚く消えた。

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