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「羞恥心はトイレが1人でできるようになると生まれる」説

 うちには子どもが2人いる。小1の娘と3才の息子だ。
 僕が小さかったころと同じように、トイレがまだ安心できない場所みたいで、それぞれのトイレスタイルがある。

 姉のほうは最近ようやく扉を閉じられるようになったけれど、できれば少しでも開けておいてほしいタイプ。一方、トイレトレーニング中でやっと大小ともにトイレで行えるようになってきた弟はと言うと、自分から「閉めてくださーい」と言う(いやむしろ叫ぶ)タイプだ。

 そこで思ったのは、「羞恥心が生まれるのは、1人でトイレをできるようになるとき」じゃないかということだ。

 トイレは、子どもが初めて1人きりになる場所だと思う。
 それまでは何らかの形で親や祖父母や保育士や看護師や誰かが、常にいっしょにいる。子どもは目が離せないからだ。家の外ではもってのほか、家の中でさえそうだ。風呂、台所、寝室、リビングなど、どの場所も子どもたちにとっては完全なプライベート空間ではないと言える。つまりは、トイレというあの小宇宙は、人が生まれて初めて自分1人だけになるスペースである、ということだ。

 トイレで1人になる。その扉が閉じられれば、そこには自分以外の誰もいない。ある意味、人生で初めて味わう完全なる孤独だ。そこで子どもたちはさまざまな不安と戦う。トイレから妖怪が出てきて飲み込まれてしまうのではないか、知らないところからゴキブリが出てきやしないか、このまま一生閉じ込められたらどうしよう、などというように。

 そうした不安に慣れるようになると、今度は意識が自分に向かう。今まで裸は見られるのは当たり前だったな、でも急にトイレの扉を開けられたらビックリするだろうな、トイレしてるところ見られるのちょっとイヤかも、という具合に。

 そうして、羞恥心、という子どもにとっては馴染みのない、まったく新しい感情が生まれるんじゃないだろうか。それは、みんなの前で何かを発表しなければいけないという類の恥ずかしさとはまったく異なる。ただの恥ずかしさではないのだ。言うなれば、トイレ(ができるようになること)は、大人への入口なのかもしれない。ちょっと大袈裟だけれど(笑)。


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