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大きな黒い鳥の食欲

 「おとうさん、トイレ」
 早朝、もうすぐ3才になる息子が僕を揺り起した。僕は唸りながら仕方なく起き上がる。早く起きた息子に抵抗しても無駄なことを知っているからだ。窓の外からは早くも鳥の鳴き声が聞こえる。
 トイレを済ますと案の定、息子は眠れなくなったようだった。まだ寝ている妻と娘を起こさないように静かにリビングに移動する。妻は寝返りを打ったので、もしかすると彼女の意識は起きているのかもしれない。母の勘はいつだって鋭いのだ。
「おとうさん、おそと行きたい」。
 時計はようやく6時を指したところだった。朝一でスマホの天気予報を見る癖がある僕は、目をしょぼつかせながら曖昧な返事をする。
「おとうさん、おさんぽ行こ」。
 息子は一歩も譲らないようだ。早く起きた朝くらい二度寝したいのが父親としての意見だが、息子としては有効活用したいらしい。「朝活かー」とひとりごちてちょっと意識高めな行動に我ながらげんなりした。

 もちろん、外に出てしまえば何のことはない。梅雨の合間の晴れ間のようで、空は朝から晴れ渡っている。雲はちらほら浮かんではいるが、青い空を久しぶりに見たような気がした。
 「おとうさん! ピーポーきたよ!」
 息子が声のボリュームを上げる。あたりを見回すが、救急車の姿は確認できない。近所に大きな病院があるため、救急車はよく家の近くを通る。しかしこの時間だ、さすがにそんなことはないだろうと2人で手をつなぎながら歩いていると、後方からあっという間にサイレンの音が大きくなってきた。
 「ほら見て! やっぱりピーポーだ! やったね!」
 親としては、運ばれている、もしくはこれから運ばれる人のことを考えるととても安易に喜べたものではなく、いつもどんなリアクションをしたものか困るものだけれど、息子としては働く車を見られた喜びが勝る。子どもには寝ぼけるというステージがないのか、朝陽を受けて溌剌とした表情にこちらの眠気も少しだけ吹き飛んだ。
 近所に流れている小川沿いを歩く。昨日までわりとしっかり雨が降っていたせいか、川の水量が多くなっている。川の脇に生えていたはずの川草たちは知らない間に刈られていて、緑の匂いがぐっと漂ってきた。この小川では夏までの間によく子どもたちがザリガニ釣りをしている。さすがにこの時間帯ではザリガニたちもまだ釣り上げられる心配はしていないだろう。
 「カラスだ」
 そのとき、大きな黒い鳥がバサバサと翼を広げて僕と息子のすぐ前に降り立った。息子はカラスが嫌いだ。うええええと言いながら僕の背後に隠れようと足にまとわりつく。
 「大丈夫だよ、すぐに飛んで行くよ」
 そう言ったところで、実際にカラスが飛んで行かないかぎり、息子は僕の足からは離れない。
 カラスは何かを食べていた。目を凝らして見てみると、それは5、6cmのバッタだった。バッタなんか久しぶりに見るなと思いながら近寄る。息子が足に乗っかるようにしているので、ひどく歩きづらい。カラスに突かれ倒していたバッタは、足だけを残され、ほとんど元の姿を残していなかった。次第に強くなる朝陽が、あちらこちらを向いた脚の影を地面に落としていた。
 カラスは途中で飽きたのか、ふいにバサッと飛び立った。「こわいねーからすさんこわいねー」と言いながら、息子はようやく僕の足から離れた。

 家に戻っても、まだ妻と娘は寝ているようだった。僕は静かにリビングに向かうけれど、息子は完全に目を覚ましたのでドタバタと歩く。小学生の娘が起きてくると登校までかなり忙しくなるため、息子と2人で先にご飯を済ませることにした。息子には、ハチミツを垂らした食パン、牛乳、チーズ入りのオムレツ、レタスとミニトマトのサラダ、それとソーセージを2本。自分にも基本的には同じもので、食パンにはブルーベリージャムを塗り、ホットのカフェラテを入れた。このくらいなら妻の手を煩わせずに済む。平日の朝はいつだって慌ただしいものだ。前夜に洗っておいた洗濯物などもざっと畳む。早く起こされて損したような気分はもうなくなっていた。

 息子と娘をそれぞれ保育園、小学校に送り届け、妻は妻で鮮やかにメイクを仕上げて出かけて行った。僕も駅まで自転車に乗り、当然のように通勤ラッシュに揉まれ、ようやく勤務地である銀座に降り立った。
 オフィスまでに向かう時、カラスがゴミ集積場で騒いでいるのが遠目から見えた。一度意識すると、何だかやたらとカラスを目にする気がする。あまりいい気分はしない。
 やはり近くまで行けば飛び去るだろうと歩いて行くと、私のことなどおかまいなしに、我が物顔で必死に(おそらく)何かをついばんでいた。よく見るとそれはまだ生きたゴキブリだった。バタバタさせるどす黒い羽は固いのか食べづらいのか、腹のほうから積極的にカラスは突いていた。ジィィィィィィと長いような短いような鳴き声が聞こえたような気がするが、それは気のせいかもしれない。これまでの人生でゴキブリの鳴き声は聞いたことがないはずだ。とにかく、それは朝から、銀座の街でカラスに食われていた。

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