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もういくつ寝ると。

 気がつけば、自分の誕生日まであと数日になっている。

 例年だとだいたい9月に入ったあたりから、「あーもうそろそろ誕生日だな」とか思ったりしていたんだけれど、今年は本当に「あれもう数日で誕生日やんけ」感が強い。まるで、まだだいぶ先に信号があるなと思いながら運転していたら気づけば頭上にそれがあった、という感じだ。

 というのも、7月に子ども2人の誕生日があるからだ。ここに意識が集中するようになったことに加えて、今年は結婚10周年で、少し早めに妻にプレゼントしたことが、自分の誕生日への興味を薄めた原因だろう。

 と、ここまで書いていてふと思う。

「息子として祝われた誕生日の記憶が薄い・・・」

 いや、両親はしっかりと僕が歳を重ねるごとに祝ってきてくれただろう。3人兄弟の3番目ということもあり、いくらか軽めのお祝いだったことはあるだろうけれど、それでも確かに祝われてきたはずだ。

 遡ってみると、小学生のころに友人の誕生会などに顔を出していたことは思い出せるが、自分のこととなると途端に記憶が曖昧になってくるのだ。単純に自分の家で祝う回数が多い、つまりはいくらか当たり前になってしまうがゆえに、そのぶん記憶も薄味になっているのだろうか。

 こうなってくると、自分の子どもたちに毎年せっせとがんばって(?)お祝いしていることが「何のため?」と思えて来る。しかし、だ。僕と妻はこれからも子どもたちを祝い続けるだろう。大きくなっていくにつれて、時には、彼女や彼にとって祝ってほしくないタイミングの時だってあるだろう。それでも僕と妻は、規模の大小はあれども、毎年祝って行くはずだ。それは誕生日が彼女や彼の誕生を祝う日であるとともに、毎年「家族でいてくれて、元気でいてくれて、ありがとう」という日であるからだ。

 そう考えると、自分の誕生日は、母と父それぞれに感謝する日でもある。大学まで都内に住んでいることもあって1人暮らしをする理由もなかったため、恥ずかしながらわりと長くパラサイトしていたけれど、家を出る日までほとんどなに不自由なく暮らさせてくれた。まあ家族喧嘩や親子喧嘩そのほかもろもろあったけれど、今までは「親と子」という関係性だったものから、新たに「親と親」という軸もできたことで、昔ほど意味もなくイラついたりぶつかることも減ってきたように感じる。あー親も親である前に、それぞれ一人一人の人間として普通に悩んだり考えたりしてたんだな、とか思うようになるわけです。

 ともあれ(強引)、そんなこんな生きてきてもういくつ寝ると「39回目の誕生日」を迎えます。だから親に「感謝しよう」という主旨のnoteを書いたわけでは、もちろんありませんよ。ええ、もちろん。

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