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「はいチーズ」が、死語になる未来。

 写真を撮られるときの自分について。どうも不自然に見える。というか、不自然極まりない。変に撮られることを意識し過ぎてて。これもまあ、自分の声を録音して「変な声だ」と思うのに似ているかもしれない。

 一方、家族を撮るのはとても好きだ。でも家族といっしょに映る時、1人だけおちゃらけたり変に畏ったりしていることが多いのだ。普通にしていればいいのに。でもその「普通」や「自然」が案外難しいのもまた事実。

 そう思ったところで、俳優の浅野忠信を思い出す。彼の演技は「自然」だ。自然すぎるくらいだ。でも誰だったか同業の俳優が「撮影しているときに自然でいることほど難しいものはない」と言っていた。なんかわかる、と俳優でもないのに納得している自分がいた。

 そもそも、写真はあまりにも身近になりすぎたと思う。今、あまりにもイージー過ぎる。写ルンですやチェキも学生時代までに登場したが(今ももちろんあるけれど)、今ではスマホでいつでもある程度の写真が撮れてしまう。その点では「自然に」撮れそうなものだが、いまだに身構えてしまう自分はやはり昭和生まれの宿命でも背負っているのだろうか。

 自分の子どもたちは、デジタルネイティブと呼ばれる世代だ。写真に関してもどんどん進化の一途をたどるだろう。昔は魂を抜き取られるとまで思われていたほどだった写真を撮られることへの抵抗感もその行為も、あるいは境界線がなくなってシームレスになっていくかもしれない。

 ともあれ、だ。いつかは自分を「自然に」撮られる日が来るのだろうか。自分が自分の写真を見て「いいな」と思うのは気張ってないときだ。写真を撮られるということを意識してないときだ。変な話、遺影とかではそんなあくまで「自然」な写真を使ってほしいなと思う。へんちくりんな自意識過剰な写真を使われたのでは、僕はきっと浮かばれない。

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