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ある女の日常、あるいは忘れられた栓。

 水曜日、電車でNetflixを見ながら帰宅した。時間は22時。広告会社の営業としては早い方だろう。打ち合わせばかりの毎日で、帰るころにはその日何を話したか忘れているが、翌朝出社すれば思い出す。便利な脳だとつくづく思う。

 帰り際、近くのスーパーで惣菜とお酒を買う。ほうれん草のおひたし、きゅうりの梅おかか和え、だし巻き卵。缶のハイボールとレモンサワー。あとは家にあるワインや日本酒で充分だ。白米は食べなくなってからずいぶん経つ。白米でお腹が膨れるのが苦手だからだ。そのかわり友人との外食や飲みの時などは、上質な肉をよく食べる。オーガニックとはあまり縁がない。

 ただいまー、と1人で言って玄関の電気が自動で点く。部屋の鍵をガチャガチャと放り投げ、高めの黒いハイヒールを脱ぎちらかし、リビングへと向かう。
 このマンションは40才になった記念に買った。記念というほど思い入れがあったわけではなく、後輩の女の子の出産祝いをネットで探しているときに、そうだ家を買おう、となぜかふとそう思った。
 最寄りの駅から15分ほど歩く5000万台の新築2LDK。ただ貯金はそれなりあり頭金を多めに入れたのでローンはそれほど大変ではない。もちろん、このまま健康な体で生きていければの話だが。

 スーパーで買ったものをパックのままローテーブルに並べる。料理を皿に出すのは余裕のある週末くらいだ。ビニール袋を乱雑に畳み、ビニール包装された割り箸を取り出す。包装だらけだ。息苦しさを覚えるがそれについて考えることはしない。

 テレビを点けてミュートにする。番組は素人がメインとなってそれをタレントやら芸人やらがツッコむというようなコンテンツのようだった。もしも自分がこの番組クルーにインタビューされたらどうしようかと一瞬考えるがくだらなくなったのでやめた。スピーカーにbluetoothでつなぎ、spotifyでアップテンポではない適当な音楽をかけた。
 キッチンで軽く手を洗い流し、半身浴をするためのお湯を沸かすために給湯ボタンを押す。風呂は週末に洗ったきりだが汚くて入れないほどではないと判断した。耳を澄ますと浴室からお湯が流れ出した音が聞こえた。あとで栓をしに行かなければと思いながらハイボールの缶を開けた。

 風呂が沸くのを待っている間に服を脱ぐ。
 少し透けるほどの薄さの白いブラウス、膝より少し上までのややタイトな紺のスカート。ストッキングが少し伝線していたことに気づいた。瞬間、帰りの電車で前に座っていたサラリーマンのスマホがこちらを不自然に向いていたのを思い出す。ネットやゲームをしていたのかもしれないが、まっすぐとカメラを通してこちらを観ているように感じた。もしかすると、写真を撮られていたかもしれない。まあよくあることだし、気にしていてもしょうがない。変に触られたりついて来られなかっただけマシだろう。

 ハイボールが早くも飲み終わるころ、右手の薬指、ライトベージュのマニキュアが少し剥げていることに気づく。寝る前にネットで行きつけのショップに予約して週末に行こうと思う。

 スマホのバイブが何度か鳴った。社用のは大したことのない共有または案内メールだった。FYIと英語はじまる内容に苛つきを覚える。
 私用の連絡は何度かセックスしている男からだった。このマンションを買うときに担当だった年下の男だ。独身女が家を買うのはもう珍しくもないのだろう、手慣れた感じだったがそれでいて感じは悪くなかった。むしろ家を買わせるときはいやに平身低頭、まるでカズオイシグロの小説に出てくる執事のような慇懃さだった。契約も差し迫るころ、ふとしたことで連絡を取るようになり飲みに行ってそのまま流れでセックスをした。男はベッドでは営業の態度をすっかり忘れ、私のストッキングを激しく破り1人で興奮したのかさっさと中で果てた。初めて部屋を内見させてもらったとき、男は既婚でひとり娘がいると笑って話していた。

 男のメールは飲みの誘いだった。というより、この部屋で飲みたいようだった。当然安上がりだし、ほぼ新築なので快適なのだ。男が住んでいる家からもさほど遠くない。軽く飲めて料理もつまめて話もできてついでにセックスもできる、ちょうどいい物件、というわけだ。

 給湯システムからアラートが鳴る。栓をし忘れていたのだ。料理には手をつけないまま、給湯ボタンを押してからハイボールを開け、レモンサワーもすでに残り少なくなっていた。ずいぶん時間がかかると思っていた。最近の家はどこまでも整備され、配慮されているのだ。便利で、快適で、定型的。住んでいる自分でも、モデルルームみたいだなと思う。年下の男がずいぶん興奮したように見えたのは職場でセックスをするような感じが理由だったのかもしれない。

 ソファに座り、無音のテレビに向かい合う。並べた惣菜を少しつまむ。味はあまりしないが、ボソボソと咀嚼する。冷蔵庫にある白ワインを飲もうか考える。日本酒も開けてからだいぶ経っているから早めに飲んだほうがいいだろう。だが結局、そのままほうれん草のおひたしをもう一度つまむ。もう一度風呂の準備をすることがひどく億劫に感じる。目をつぶる。このまま寝てしまいそうだ。化粧も落としていないし、歯も磨いていない。このまま寝落ちして深夜に起きるのは悲惨だ。その時間には救いがない。

 なんとか目を開ける。コンタクトが乾き眼球に張りついていやな感じだ。目薬はどこにやったっけ。ため息をつきながら床に落ちていたバッグを漁った。

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岡本才市(オカモト サイチ)

仕事は美に関わるアイデアやコピー制作、方向づけ。人生健忘症気味につき、気づいたり面白がったり思い出したり掘り出したりしたことを備忘録的に。仕事では緊縛プレイのように息が詰まっているため、noteでは飄々とふざけたい。転勤族の東京育ち。親友のような妻と一姫(7)二太郎(3)。

【創作短編、のようなもの】

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