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言語化の功罪

先日、美大を目指すお子さんの話で「保育園の影響が大きいかもしれない。そこは『卒業するまで文字を勉強したらダメ』と絵をたくさん描かせるところだった」と聞いた。ちょっと羨ましく思った。

言語化というのは簡略化の一種でもある。以前『情報は1冊のノートにまとめなさい』の著者である奥野宣之さんが解説してくれた。

例えば誰かが「ライオン」と言ったとする。「ラ・イ・オ・ン」という4つの音の並びを聞くと、日本語を知っている人なら誰でも共通の動物の姿を思い描く。でもその瞬間に、それが持っている匂いやゴワゴワしたタテガミの手触り、それが持っている迫力や怖さなどは全部削ぎ落とされてしまう。

「ライオン」と聞いたからといって私たちはその匂いを思い浮かべられないし、「ライオン」と言うことでその大きさや体温を伝えることもできない。

「ライオン」という文字・音声にはある動物についての共通概念は込められるけれど、ライオンそのものの情報はほとんど落とされて伝えられる。というか情報を落として流通しやすくするのが「言語化」の効果やメリットなので、仕方なくそういう現象はついて回る。だから「言葉にするときは功罪を意識して使ったほうがいい」と。

ある番組では、目撃者が犯人の特徴を言語化する危うさを説明していた。

【実験】犯人の写真を30秒見せた後で被験者を「犯人の特徴を思い出して言語化させるグループ」と「言語化しないグループ」に分け、一定時間が経った後で似たような男8名の写真を並べて「誰が犯人か」を教えてもらう。

この実験の結果、正しい犯人を当てられた人は「言語化しないグループ」のほうが多かったという。言語化は一見正しい情報に絞り込むための良い方法に思われるけれど、実は自分が言語化した内容に影響されて元々の記憶が歪むらしい。

この話は、言葉を仕事にする身として結構怖い。表そうと思ったことが事実から離れてしまったり、大事な何かを落として進んでいたりする可能性が高いからだ。

いっそ言語化を止めて自分の中で醸成したほうが、もっと「本当」に近づくのかもしれない。冒頭の美大に進みたいお子さんの話が羨ましいと感じたのもそこだった。あえて言語化をしない、言語化する方法を知らないという時間が長かった場合、たぶん私が知らないくらい豊かな感情や思考が醸成されているような気がする。

下手に言語化に慣れていると、何をしても何を見てもつい言葉に変換しようとしてしまう。早く言語化したからといって対象が的確に変換(表現)されているとも限らない。アウトプットすればするほど「伝えたい」とか「深めたい」という内圧はプスプス抜けて弱くなる。

言葉にしない(できない)感情や感覚が積もり積もって内側から溢れ出すとき、これまでの圧が解放されるような、爆発するような強い表現になるのだろうなと思う。私はそこまで堪えきれずに言葉にしてしまうのが習慣になっている。

この文章もここまで書いちゃったしな。また溜めないと。

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