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解決つかないけれど、モヤモヤすること2つ

どっちが良いとか悪いとか、一刀両断できないことがたまに起きる。

数年前の夏のこと。美術館で壁にある絵を見ながら歩いていたら、踵に激痛が走った。裸足にサンダルだったのでちょっとすりむけて赤く血が滲んでいる。パッと顔を上げたら、車いすのお客さんの車いすが私の踵を「ガリッ」と引っかけたのだった。

痛さとびっくりと怒りとで、一瞬、車いすに座っている人をキッと見てしまった。その人は何かに気づいて申し訳なさそうな顔になったのだけど、車いすを動かしていたのは彼女ではなく付き添いの人。壁の絵を見ながら車いすを押していたら、前にいた私の足を引っかけてしまったらしい。

このとき、痛さとカチンと来た気持ちはどうすればいいのか。車いすに座っている彼女は悪くない。押された車いすに乗っていただけなのだし。かといって押していた付き添いの人が悪いかというと、まあ絵を眺めながらチビチビと歩く場所なのだから仕方ないともいえる。かといって血が滲んだ足と痛さをチャラにできるほど自分の器ができているかというとそうでもない。

その一瞬で、なぜか座っている彼女が「すみません」と申し訳なさそうに頭を下げてくれたのだけど、そこで「いえいえ」と彼女に返すのも何か変だ。押している付き添いの人は私との距離があって、何が起こったかたぶんよくわかっていない。

もやもや。

ある生物を「絶滅させてはいけない」という投稿を見る。たしかにキレイでカワイイ生物ばかり人間様が優遇するのは変だし、取り上げられていた生物を「絶滅させないようにする」のも必要だと思う。

そうすると他の危機的な生物も「絶滅させないようにする」というのが、公平な態度になるんじゃないか。コレはいいけどアレは駄目というのは不公平だろう。

でも地球上でこれまで何十万種も絶滅してきて、おそらくこれからも人間を含めて何十万種も絶滅を迎える生物が存在するはず。たまたま今、人間様が生きている一瞬だけを切り取って「この生物は絶滅させてはいけない」と主張するのが果たして良いことなのかどうか。

逆に「どの生物も絶滅しない」という世界が実現したとしたら、それは生物の掟として良いことなのかどうか。「絶滅させない、守らなければ」という話が出るたびに考えてしまう。

もやもやもやもや。


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